千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

中国にのみこまれるイタリア

2011-11-08 22:52:13 | Nonsense
ドイツでは、そろそろクリスマス用品が店頭に並ぶ頃。クリスチャンでなくてもクリスマスが気になる行事となるのは、クリスマス商法にのせられているからだろうか。グッチ、プラダ、ブルガリ、フェラガモ、、、ついつい目がひかれてしまうのだが?イタリアを代表とするこれらの高級ブランドが、実はメイド・イン・イタリー・・・だが、実態はバイ・チャイニーズにぬりかわっているという「選択」でのお話である。

イタリア経済を支える高級ブランドは、洗練されたデザインと伝統を支えていたのがイタリア人工芸職人の技だったのだが、現在は、中国の下請け製造業者に依存することが多くなってきた。ファッション、車、陶磁器などのブランド品の製造する中心地にひろがっているのが、チャイナタウン。その数、数千~数万人規模の中国人居住地が出現しているという。それらの中国人居住区には、スーパーマーケット、食堂、就職斡旋所などを含めて、必要な都市機能はすべてそろっている。フェラガモやグッチなどの高級ブランド各社の製造は、工賃の高いイタリア人職人から、割安価格の中国人下請けにシフトしている。わざわざ中国まで依頼することなく、同じ地域に住む、格安の中国人業者に下請けにだせば済むのだ。中国にとっても、贋作を作る必要はなく、本場イタリアでブランド各社と契約を結び製作をすればよいという、まさにWINWINの関係になる。

問題は、メイド・イン・イタリーが、イタリア人が作ったのか、中国人が作ったのかの違いではなく、中国人居住区を仕切るのが中国マフィアであることだ。たとえば、プラトでは犯罪が発生しても地元警察は殆ど手をだせず、また、人口20万人で5万人いる中国人(合法的な移民は1万人)たちの過酷な労働現場では、最低賃金、就労時間、児童労働、安全基準などのイタリアの法律規則は適用されていない。イタリアのもうひとつの”伝統”は高級ブランドだけではなく、”マフィア経済”であるが、彼らとはシチリア島出身で南部を統治する彼らとは、地域ごとにうまく棲みわけて上手に共存して根をはっている。

おりしもユーロ危機が世界経済を不安に陥れている中、10月23日にブリュッセルで開催されたEU首脳会議では、ギリシャ問題以上にイタリアに議論が集中したのだが、ベルルスコーニ首相はまるでやる気がなかったそうだ。これには、イタリア経済界も怒って「緊急経済対策」を首相に求めたところ、「お金がない」との回答で一蹴した。確かに、首相はカラヴァッジョの「聖パウロの回心」を狙えるほどのとんでもない資産家だが、イタリアの国が傾いていていてお金がないのは事実。しかし、ベルルスコーニ首相が呑気でいられるのは、すっかりイタリアを侵食している中国に、政府系ファンド「中国投資(CIC)」に国債や借金を引き受けてもらうよう交渉中だからだという説もある。

危うし、イタリア!それにしてもイタリア在住の経済記者の次の言葉には、泣かされる。

「すでにイタリア経済は中国にのみこまれつつあり、製造業では運命共同体である」

そういうのを亡国って言うのではないだろうか。あっ、今年の春に買ったフェラガモのバックももしかしたらメイド・イン・イタリー・バイ・チャイニーズなのか。それも大きな問題だっ。

『ゲーテの恋』

2011-11-05 19:31:56 | Movie
走る!走る!、23歳の法律を学ぶ若きゲーテは、詩人になる夢に向かって、ひたむきに、まっすぐに全速力で走っていく。その先に待っているのは。。。

ドイツを訪問するとこの国の人が、いかにゲーテを尊敬し、愛しているのかを実感する。フランクフルトにはゲーテの生家が再現され博物館があり、ハイデルベルクにはゲーテが散歩した哲学する道、亡くなるまで住んだワイマールにも家と山荘が保存されていて、ゆかりのある各地方にはゲーテの銅像があり。

文豪ゲーテは、詩人や小説家としてだけではなく、自然科学者、法律家、高級官僚、哲学者、政治家と万能の才人で、あのシラーでさえも友情を育む前は嫉妬をしたくらい社会的にも大成功し、顔立ちも美しかったそうだ。恵まれた財産と才能をいかしつつ、あの時代に馬車に乗って各地を訪問していたということは、自由奔放に生きた”遊び人”でもあったゲーテ。そんな彼も、最初から成功していたわけでも、恋の達人だったわけでもない。教育熱心で長男に優秀な法律家となることを期待する父との確執、作家を志すも全く認められず、自信と失意のどん底にゆれる日々。これまでゲーテを描いた映画はなかったとは意外だったが、そんな彼が、200年以上経っても、尚読み継がれている大傑作「若きウェルテルの悩み」が生まれるまでの、実在したシャルロッテとの激しい恋の顛末を描いたのが本作である。

1772年ドイツ、走る、走る、法律を学ぶヨハン・ゲーテ(アレクサンダー・フェーリング)は、できあがったばかりの戯曲を出版社に投稿するために、ひたすら走っていく。博士号取得試験は、勉強不足で見事落第。しかし、作家となる原稿、夢を抱えて、彼は一直線に郵便馬車をめざして走っていく。映画の冒頭では、ゲーテのあかるく溌剌としてお茶目な人物像、魅力的な容姿、恵まれたバックボーンをさりげながら描きながら、走る場面で彼の一途さを示している。やがて、彼の走る姿が、恋に落ちたロッテへの激情につながることまで示唆しているのは、拍手。そんな息子を愛しながらも、あきれて怒った父は、田舎町ヴェッツラーの裁判所で実習生として働くことを厳命する。上司のケストナー参事官(モーリッツ・ブライプトロイ)は、彼とは対照的に生真面目できっちりとしたいかにも法律家らしい男。しかし、早速、同僚のイェルーザレムと親しくなった彼は舞踏会にくりだし、遊び人ゲーテらしくそこで出会った15歳の朗らかで聡明なシャルロッテ・ブッフ(ミリアム・シュタイン)と恋に落ちた。この恋の本気度は100%以上だったから、ノンストップ!

ゲーテと言うと、すっかり晩年の文豪のイメージがすりこまれてしまっているが、ミック・ジャガー、マドンナからルチアーノ・パヴァロッティまで幅広くPVを撮ってきたフィリップ・シュテルツェル監督は、軽快に、颯爽と小気味よいテンポ感で自由奔放で反抗心旺盛、不遜だが魅力的な青年を描いていく。観客の楽しませ方を熟知している。ゲーテだけでなく、活発なロッテ、繊細な友人イェルーザレム、恋敵とはいえ不器用だがよい夫になりそうなケストナーといった人物のキャラクターや配置も、定番とは言え、生き生きとスクリーンの中で躍動している。こんな映画だったら、役者も演じていて楽しかっただろう。そう思わせてくれる作品が、成功しないわけがない。一途なゲーテの結末が悲劇に終わったのは誰でも知っている事実のも関わらず、予想外のハッピーエンドでもってくるエンディングは、恋愛映画の決定版。観客の入りはいまひとつで、年齢層が高かったが、若者にこそ観て欲しい映画だった。

フランクフルトのゲーテの生家には、戦火を恐れて疎開させていたゲーテ家の家財道具がそのまま残っていて当時の様子をしのばせてくれる。たくさんのケーキの型、音楽の部屋、本がびっしり並んだ書斎、そしてゲーテが執筆した机。なかでも私が一番気に入ったのが、右の画像にある妹のコルネーリアと人形劇を上演するためのおばあさんがプレゼントをしてくれた箱である。映画をご覧になった方は、おそらくこのお芝居をする大きな箱に思わずにやりとするだろう。少年ゲーテは妹とどんなお芝居を上演したのだろうか、と想像するだけで心がぬくもる。厳格な父とはいえ、こどもたちに教育と愛情をそそぎ、そしてそんな家族を支えた家庭的な母。幸福なゲーテは、溢れんばかりの愛情をその後も人妻との苦しい恋にそそぎ、晩年には60歳年下の少女に告白してふられたりもした。ゲーテは、詩を書き、小説を書き、自然科学を探求し、激しい恋心に苦悩もして、素晴らしい人生を駆け抜けた。そんなゲーテだから、世に残る傑作をものにしたのだろう。悪魔に魂を売ることなんかしなくても。

監督:フィリップ・シュテルツェル
2010年ドイツ製作

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「ドイツ語とドイツ人気質」小塩節著
ゲーテとシラーの友情

「ドイツ語とドイツ人気質」小塩節著

2011-11-03 22:43:54 | Book
今年の第68回ベネチア国際映画祭で金獅子賞を獲得したのは、アレクサンドル・ソクーロフ監督「ファウスト」だった。映画祭が「難解」と批評される同作品を満場一致で栄誉を与えたことは、映画が商品というよりも芸術作品であることを改めて思い知らされた。ところで、ソクーロフ監督が新作のテーマに悲劇「ファウスト」を選択した動機には旧作『人生の祭典』のラストでつぶやいていた「さよなら、ヨーロッパ。こんにちは、あたらしいヨーロッパ。おまえはどうなるのか」というモノローグから流れていると感じている。ファウストは、16世紀のマルティン・ルターの時代に、ドイツに実在した人文学者である。学問追求と真理探究の情熱のため、悪魔メフィスト・フェレスに魂を売った男は、多くの文学、絵画、音楽の主題となり、ヨーロッパ人の心をゆさぶり続けたのは、いったい何故なのだろうか。それが、ヨーロッパという"du”だ。

多くの「ファウスト」のなかでもゲーテの作品を、最も優れていると絶賛するのがドイツ文学者の小塩節氏である。本書は、その小塩氏による「ドイツ語とドイツ人気質」というサブカルチャー的なタイトルを装いつつ、実は、そこはやっぱりドイツもの、ドイツの深き森を遠く少々近寄りがたく見るようなドイツ人精神にふれている。単なる”気質”以上の精神生活の領域にまでせまろうとしている。

さて、タイトルにもあるドイツ語と聞くと、一般的に犬猿の仲のフランス語に比較してごつくて汚いと言われている。そんな評価はいかにもドイツ人のイメージに近いのだが、何度かドイツを旅し、ドイツ語を聞いているとそんな先入観はいつのまにか消えていく。私にとっては、少なくとも青い空のような英語ほど明瞭であかるくはないが、くぐもった内省的な言霊のような陰影のある響きはそれはそれで心地よく残る。小塩氏によると、たとえば、ドイツ語の詩はそもそも読むものではなく、朗読を聞いて味わうものになるそうだ。韻律とリズムを分析した土台のうえに朗読された詩は、自由に、弾力的に深々とした音の構築の中に、形象イメージがひろがるという。

Wie herrlich leuchtet
Mir die Natur!
Wie glanzt die Sonne
wie lacht die Flur!

なんと晴れやかな
自然の光り。
なんと太陽は輝き、
なんと野は笑うのだろう!

ベートーベンの歌曲 「8つの歌 Op.52より 」にも歌われた中学生でも書けそうな単純な詩ではないかと思われる若きゲーテの「5月の歌」も、優れた朗読者の声にのればそれは音楽的な芸術品となっていく。彼らにとって言語は読むよりも、語り、聞くもの。ゲーテの時代からあった朗読会は現代でも継承されていて、作家の多和田葉子さんもご自分の作品の朗読をされていた。いったいにドイツ人は朗読のために声を鍛えているわけではないが、おしゃべりである。カフェでは、延々と熱心な会話が続いている。ゲーテ生家の近くのGoethes Leibspeise in Italienというメニューがある「cafe Walden」では、平日の昼間から、仕事はどうしたのかと心配になるくらい、いつ果てるとも知れないおしゃべりの花が咲いていた。静かに食事をして、ランチタイムの習慣がすっかり身についてしまった私など、ぴったり小1時間で退散してしまった。そんなおしゃべりは自己主張の強さの表れであり、分析、批判精神といった鋼のような精神世界をつくっている。しかし、要するに、彼らの魂はEinsamkeit孤独なのである。それゆえに神の前に屹立した個を確立せざるをえないのである。

小塩氏はドイツ語だけでなく文章の達人でもある。また、氏の教養とドイツ人とは違った日本的な倫理観のベースは読んでいても気持ちが豊かになりつつもいつしか胸が静まるものがある。余談だが、今年は日本とドイツが交流して150年目の記念の年にあたる。10月23日有栖川宮記念公園で開催されたドイツフェスティバルには2万人もの人が訪問してドイツを経験されたそうだ。海外旅行で訪問してみて、予想外に行ってよかったという感想がかえってくるのもドイツ。本書が書かれたのは昭和57年だが、4半世紀経った今日でもお薦め。 Tschüs!

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「ドイツの都市と生活文化」小塩節著