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戦場カメラマン 小柳次一~日中・太平洋戦争 従軍5千キロの記録~

2008-10-06 22:54:24 | Nonsense
日曜日の午後10時。そろそろ明日からの仕事が気になる頃だが、それはしばし待て。それよりもNHKの「心の図書館」に行ってみよう。
昨日の企画「戦場カメラマン 小柳次一~日中・太平洋戦争 従軍5千キロの記録~」もとても内容が深かった。

番組の主人公は、すでに亡くなっている小柳次一氏。おそらく小柳氏の名前は、私もそうだが、今では殆ど知られていない。しかし、彼は日中戦争から太平洋戦争にかけて報道カメラマンとして5000キロにわたって従軍し、「戦争の現実」と「兵士たちの素顔」をカメラに記録していた言わば元祖報道カメラマンである。
きっかけは、自身も報道カメラマンとしてベトナム戦火で写真と撮っていた石川文洋氏が、日本の戦争写真の記録をまとめているうちに、小柳氏の写真に注目するようになったことからはじまる。戦後63年、あの戦争を知る者がいなくなりつつある今日、石川さんは小柳氏の写真をたどりながらもう一度戦争を捉えなおしたいと考えている。

1933年、米国の『LIFE』に1枚の写真が掲載され、センセーショナルな事件となる。
それは、日本軍による戦渦で瓦礫となった上海の街の中で、たったひとり残された赤ん坊が座って泣いている写真である。私は一目見て衝撃を受けたが、よくよく考えるとなにか非現実的な印象もなきにしもあらず。それもそうだ、実は、その写真は諸外国の反日感情を煽るために中国側が”作った”写真ではないか、との評判がたった。日本もこのような「プロバガンダ」写真を撮ったらどうだろうか。その任務は小柳次一に任され、彼は昭和13年1月から終戦時までの8年間、陸軍報道部の嘱託及び軍属として、中国各地、フィリピン、千島列島、満州へ、そして最後は日本の特攻基地で写真を撮り続けた。軍部の専属だったため、戦場のどこまでも行動をともにでき、またフイルムも当時としては潤沢にあったのだが、それがどういう意味をもたらすのか。最初は、稚拙で今だったらとても通用しないが、戦車の写真を何枚もつぎあわせて、たくさんの戦車が戦場に向かっているような写真など、彼の作品は軍部の戦意高揚のプロバガンダとして利用された。

しかし、やがて寝食をともにする兵士達と関わるようになり、彼の写真は少しずつ変わっていく。女優が表紙を飾る「サンデー毎日」の雑誌をかかえ笑う兵士。一面の花畑で咲く可憐な花に心がひかれる兵士。仲間の水筒から水を飲ませてもらう兵士。明日、いや次の瞬間、命が消えるかもしれない状況で、活き活きとした表情の「兵士たちの素顔」を彼は撮りはじめる。そして、一見、つかのまの休息でやすんでいる兵士の隣に横たわり、すでに絶命している兵士の姿が見える「戦争の現実」。戦局の悪化に伴い、国のために命を捨てる特高隊員も撮るようになる。生まれたばかりの息子の顔を見ることもなく、出撃直前に杯でお酒を呑む非常によい表情の写真。兵士の笑顔は、どれも素晴らしくよいのである。これは、過酷な戦場ゆえに、笑う時は心の底から笑うしかなかったからだろうか。また、飛行をはじめる息子をりっぱに玉砕せよと見送る父の背中。どの写真も、忘れがたい印象がある。

最初は、単なる仕事と割り切っていた彼は、やがてありのままの兵士を撮ることにこだわるようになる。そして、報道カメラマンとして5000キロの道程を兵士とともに歩んだ小柳が、最後にたどりついたのが、この右の一枚の写真だと思う。戦火で家を焼かれ呆然として悲しむ病気の老人と慟哭するような表情の老婆の写真である。ここにあるのは、敵も味方もなく、勝者も敗者もなく、ただ戦争によって苦しめられ嘆き悲しむ人々だ。この1枚の写真に、彼のカメラマンとしての視線が凝縮されているようだ。

敗戦後、軍部によって大方の写真は没収され、彼は戦争協力者と非難され不遇の人生を送った。
晩年、彼はわずかに残された写真を遺族に送り、また中学校の文化祭にあるような手作りの写真展を催し、戦争の現実を訴えていたという。87歳で最後の日を迎えたのは、たったひとり残された彼をひきとった特攻隊員の遺族の家の小さな部屋だった。

■こんなアーカイブも
・菊池俊吉写真展-昭和20年秋・昭和22年夏


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