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「ペンとパンの交叉は即ち私共が生活の象徴であります。
私共は未だかって世間の文人に依って企てられなかった商売の内容をここに御披露するの光栄を誓ひます。」
パンにペンがつきささり、かたわらにワイングラスがおかれたイラストは、この宣言文のようにユーモラスである。そこに、親友を処刑された哀しみや絶望、明日は我が身かもしれない恐怖、残された社会主義者である同志たちの糊口しのぐための商売を必死で考える堺の苦境を想像すると、このたくましさと朗らかさはいったいどこから生まれてくるのだろう。
堺利彦は、明治3年11月25日に福岡県豊前国京都郡豊津に貧乏士族の子として生まれた。秀才としての誉れも高く、郷里の期待を担って勉学のために上京するものの、大酒を呑んでは遊郭に通つという乱暴狼藉なる放蕩学生としての実績を積み、学校からは除名、養家からは離縁して”一文無し”になるという武勇伝を残す。当時の典型的なパターンでもある女に愛された破滅的な文士として短い生涯を終えた兄の影響もあるだろうが、こんな破格な思春期に、私には社会主義者としては理論派よりも現実的な行動派の堺の気質が伺えるように思われる。本書を通じて堺という人物の人となりを察すると、人間としての懐の広さが魅力であるが、それもこんなとんでもないやんちゃ時代を通り抜けてきたからかもしれない。さて、そんな彼は26歳の時に父の死をきっかけに放蕩生活には別れを告げ、また社会主義を知ったことにより、弱気をたすける正義感と貧しい人々の共感をもって理想の社会を実現したいと考えるようになる。そして1899年、幸徳秋水を知り交流を深めていく。
本書のテーマーでもある売文社は、1910年、堺が獄中で幸徳秋水らの検挙を知り、売文社の構想をねったところからはじまる。彼は、文章力があるうえにもともと語学のセンスもあり、牢獄を読書に励む書斎、英語だけでなくフランス語やスペイン語などの語学学習の場にかえ多言語をものにして、自ら”楽天囚人”と名乗るようになる。しかし、出所後の売文社の”情報センター”としての最初の仕事が、大逆事件で処刑された友人達の遺体引取りと葬儀だったとは。当時、警察の捜査は執拗で大規模だったために、大逆事件の”犯人”と顔見知りというだけ、無事ではいられないという恐怖に人々はとらわれ、中には変名を使って行方不明になる者もいたほどだった。そんな世相の中、堺は一ヶ月あまりの遺族慰問の旅をして、残された遺族に面会して義捐金を渡していったのだった。
「行春の若葉の底に生残る」
秋水の墓に詣でて詠んだこの句には、彼の万感の思いがこもっているようである。
売文社の営業種目は35種目。商標考案、性欲記事英訳、遊覧案内編集、出金を求むる書簡分、某学校卒業式生徒総代答辞などもあり、現在の編集プロダクション、広告代理店、翻訳会社の機能を果たしている。学生時代、某大学の苦学生が女子大の女の子の卒論代筆を請け負ったなどという噂も聞いたことがあるが、売文社では卒論代筆もこなしていた。その仕事の幅広さや能力の高さは、一度も行ったことがないヨーロッパ、アジアの国々の旅行ガイドにも見られるから笑える。売文社時代の堺は、狸親父と慕われ、尾崎士郎や荒畑寒村をはじめ多くの作家や社会主義者に尊敬され、慕われたそうだ。
しかし、尾崎は、文章を売ることで冬の時代を耐え、時期が来るのを待ち続けた堺を忠臣蔵の大石内蔵助ににたとえたが、「大正版忠臣蔵」は辛抱ができなかった若い四十七士に謀反され、信頼していた部下に「十年臥薪嘗胆の夢」を破られる結末となった。
1933年1月23日、堺利彦は亡くなった。最後の言葉は「帝国主義戦争絶対反対」だった。日露戦争当時の非戦論から世界大戦の危機をはらむ時代まで、常に捨石埋草として働きたいと願っていた堺は存分に生きたと思う。しかし、もしもう少し彼が長生きしていたら、その後の日本の暗黒時代をどのように見ただろうか、と本を閉じると同時に考えざるをえなかった。
終始、堺利彦によりそうように、多くの資料を集めて彼の業績をほり起こした文章には、今では故人となった著者、黒岩比佐子さんの誠実で丁寧な仕事ぶり、そして”義憤にかられた”という本書執筆の動機を語った静かな情熱が感じられる。
*表紙は、出獄後、売文社の看板を初めて掲げた自宅の前で、妻と娘と。(1910年冬)
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