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旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

長浜祭2023夕渡り

2023-04-14 17:03:05 | 国内
4月14日午後6時。
「子供歌舞伎」の役者行列が八幡宮(↑上写真奥の鳥居)を出発した。
これを「夕渡り」とよんでいる。
最初はお囃子隊。
※こちらに動画を載せました

赤い記章をつけた黒紋付袴の面々は誰?

↑「滋賀県知事と、長浜市長と、商工会の会頭ですよ」地元ガイドさんがおしえてくれた。

今年は長浜祭450周年。
秀吉が浅井家の小谷城を陥落させたのが天正元年1573年。
領地を拝領すると、主君信長の一字をもらって「今浜」を「長浜」と名前を変えた。
通商に便利な湖の岬に長浜城を建設し、三十代半ばではじめて城主となった。
楽市楽座政策をはじめると人口は五百から四千人にまで増えたそうな。
秀吉は本能寺の変の起きる天正10年までの十年間を長浜に住んだ。
苦労も多かっただろうけれど、若く活力に満ちていた頃に住んだ長浜は
生涯特別な街だったにちがいない。

長浜の人々は450年経っても秀吉さんに感謝している。

そんな起源をもつこの祭は4月15日の奉納子供歌舞伎をいちばんの見所として開催される。

↑夕食の時にみかけた古いポスター、かつては10月だった?
**
奉納歌舞伎前日前夜の「夕渡り」を見学するために、17時には「千茂登」でウナギの夕食とした。



黒壁スクエア近くのアーケード商店街で時間調整

十三基全部の写真が飾ってあった

↑これは先導する山

↑「長浜城からの道と北國街道がここで交差していたんです」↓

秀吉が碁盤の目に四角く区切った街並みが「黒壁スクエア」

↑「黒壁スクエア」プロジェクトのはじまりとなったのが↑旧銀行のこの建物↑

水路と道が交差する埋め立て地の石積みが今も使われている


京都の祇園祭と同じような粽が掲げてある家も多い。

**
「夕渡り」とは、4/15の「子供歌舞伎」の役者たちが八幡宮からお披露目行列をすること。
18時に冒頭の写真の面々を先頭にはじまる。


「役者」たちは五歳から十三歳とパンフレットにはあったが↑この子は四歳。

↑女性は女形が演じる。子供であっても歌舞伎のしきたり通り全員男。

ところどころで止まって見得をきる↑

それぞれの山がのぼり?二本を持っているが立てていなかったり立てていたり。

↑二本立っていると背景がひきたつ↑

↑こちら皆鶴姫は↑明日午前中に我々が観覧する歌舞伎に登場する。

お披露目行列を見ると明日の奉納「子供歌舞伎」がさらにたのしみになる。
※翌日のブログにリンクします

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湖岸道路を北上して、西野水道、向源寺

2023-04-14 10:56:57 | 国内
《手造の旅》で米原駅に集合するのは三度目。

東海道新幹線の駅で琵琶湖も近い米原は「ビワイチ」起点のひとつ。
スポーティーな貸自転車がたくさんある。

「ビワイチ」とは琵琶湖一周220kmを一周すること。
専用道路が整備されて走りやすい。

湖岸道路を北上すると身長28メートルの長浜大仏がみえてきた↑

長浜城近くの「豊公園(ほうこうえん)」は明治になってから建設された。
秀吉が建設した長浜だが、徳川の世にはおっぴらに秀吉を讃えづらかったのである。

長浜城は1983年に完成。
博物館にして復元することで補助金も得られたのだそうな。


湖岸を走ると水門がたくさんあるのに気付く。
琵琶湖に流れ込む川は全部で117。これらをコントロールしないと水害・水質管理はできない。
昭和47年に「琵琶湖総合開発特別措置法」ができ、水質保全から観光開発に至るまで大規模で長期的な計画がスタート。
「この計画には大阪と京都もお金を出したんです。琵琶湖の家庭では洗剤も決められたものしかつかえんかったんですよ」と、ガイドさん。
京都府・大阪府で使う水は滋賀の人々によって護られている。

↑今日宿泊する「紅鮎」は湖畔ギリギリの尾上温泉に建っている。
今ではこんな場所に宿は建てられない。
総合開発計画がもちあがるよりずーっと前からこの場所で営業してきたのだ。


長浜で小松が最も訪れてほしい★西野水道を、今回も歩いていただいた。

※2022年4月にはじめて入った時のブログにリンクします
江戸時代後期に手掘りで山の下に貫通させた220メートルのトンネルが残されている。

ここを管理されている野洲さんに、そもそもなぜこんなトンネルが掘られたかお話していただいて、ヘルメットと長靴をつける。

余呉川の水が溜まって満足な耕作ができなかった西野地区の人々を救うために恵荘上人が発案し、五年の歳月をかけて実現させた。
彦根藩が許可したが、現代なら五億円にもなろうかという資金を捻出したのはわずか百戸ほどの西野地区の人々。
土地や家財を売り、食事をけずった。

九州の有名な「青の洞門」が今は国道になってしまって原型を留めていないのに比べ、こちらの水抜き穴は江戸時代のままなのがすごい。
完成後、後に大老となる彦根藩の跡取り・井伊直弼がやってきた。
今日、解説をしてくださった野洲さんの家に一振りの槍を賜ったのだが…
「その槍は戦争中の金属供出令で先の方だけ切り取って持っていかれたんです」

いちばん高い天井は4メートルにもなるが、これは間違って掘ったと推察されている。
各自懐中電灯を持ってゆっくり進む。

今回はこれまででいちばん水が多い。

断層がいくつもあって、掘りはじめてみると固くて硬くて…能登から雇った石工は三ヶ月で18メートルだけ掘って帰ってしまった。

能登の石工が琵琶湖側から掘ってほおりだした穴に、伊勢の石工が東側から掘って合わせた技術に驚く。
1845年6月4日午後4時、水道は貫通した。

我々も琵琶湖側に出た。

↑振りかえると、左側が今出てきた江戸時代のトンネル。
↑すぐ右に昭和22年に建設された二番目のトンネル。
江戸時代に掘られた穴を拡張していたら、現代の我々が江戸時代の人の苦労を体感することはできなかった。
別に新しいトンネルを掘ったのは、旧トンネルがくねくね曲がっていたからかもしれない。

↑三番目のトンネルが今も排水に使われている。余呉川水である。
★四番目のトンネル計画が平成22年にもちあがったとはじめて知った。
170年経っても、この場所には排水溝が必要なのだ。

**
向源寺の国宝十一面観音にお会いしてから、境内でお弁当にした。

井筒屋の「湖北のお話」弁当。今年から1400円に値上げ。
↑ふたの裏の「おこんだて」で内容を分かりやすく解説されている

↑ご飯の下に引かれている桜の葉っぱ↑良い香り(^^)
↑サイコロの「五」の箱には伝統の醤油飴が入っている・カンロ飴にそっくり(^^)

↓「あの建物はなにかしら」境内の隅の建物を質問された

↑急な屋根は↑もともと茅葺だったのだろう
↓入口に貼りだされていた紙で、ここがかつて茶屋だったと分かった↓

↑文章の中で言及されているお像↓

↑なかなか丹精で、どこにあったモノなのか気になるが、由来を知るすべはない。


↑お弁当のあと、すぐ近くの「観音の里資料館」に徒歩移動↑この地方では巨木を「野神様」と呼ぶ


↑長浜は二十五の集落に三十の観音様が護られている。
己高山(こだかみやま)には比叡山に匹敵するほどの伽藍が立ち並んでいたとされるが、戦国時代の戦火で焼かれてしまい、村人が救ったお像を密かに伝えてきたのである。

この博物館はそれらを研究するための中心になっている。



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