旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

琵琶湖疏水インクラインから南禅寺へ

2019-04-08 14:00:00 | 国内
山科から京都動物園を右手に見つつ…あ、キリンだ

琵琶湖疏水の京都側の到達地である南禅寺ちかくにやってきた。
まずは、ちょっと早めのランチ。人気のお店なので開店時間すぐでないと予約をとってくれないので

「おばんざい」四種盛はけっこうボリュームあります

古民家の雰囲気↓和室で足を折ってすわるのはちょっとたいへん?

**
食事の後、「インクライン」を見学
桜は今が盛り

「インクライン」とは、incline
「傾ける」という動詞であり「傾斜・勾配」という名詞。

水路が急になって船が航行できない場所につくった船を輸送するための線路↓

↑ここで船が自ら線路にのせられる(または降ろされる)
↓そしてこの坂を輸送される。水は横の水路を白い急な流れになっている

インクラインの斜面も、もちろん人工のもの。
↓傾斜の下を貫通させる通路があった↓

↑通称「ねじりまんぼ」というのは、内部のレンガがねじれた形にならべられて強度を増しているからだそうな↑たしかにねじれております。
このアーチの上にも扁額が↓

「雄觀奇想(ゆうかんきそう)」
前出の、この琵琶湖疏水を発案した京都府知事北垣国道筆
意味は「見事なながめとすぐれた考え」

★水路はここだけではなく、南北に分けられていた↓

↑上の流れに残る水は南禅寺の境内にある「水路閣」を経て哲学の道をながれる水路へ導かれていく。
↓あとから訪れた南禅寺境内にそびえるその水道橋「水路閣」がこれ↓

※こちらにもっと写真を載せました
まるでローマの水道橋(^.^)

***
★琵琶湖疏水の難工事の中で十七名の殉職者が出たことは、建築責任者の田辺朔郎にとって痛恨事だったにちがいない。
私費で建立されたという石碑に気持ちが刻まれている↓

「一身殉事萬戸霑恩」
(その身が殉じた事は、多くの人々に恩恵を与えている)

田辺朔朗は琵琶湖疏水を大学卒業論文にとりあげ、そのまま採用されて仕事をはじめた。
↓若々しい姿の銅像がある

二十代の彼の指示した現場には彼の親ほどの年代の労働者も多くいただろう。
裏面にひとりひとりの名前が刻まれていた↓


ちかくにもう一つの殉職碑がある

****

南禅寺の大門↓



別料金だけれど、ここはのぼっておきたい(^.^)


「ぜっけいかな、ぜっけいかな」

この門は1628年の再建だそうなので、石川五右衛門の時代にこれはなかったでしょうけれど




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山科の桜と菜の花の中を毘沙門堂へ

2019-04-08 10:00:17 | 国内
「今日は山科で降りて疏水沿いを歩くと菜の花がきれいですよ」と疏水船の方が勧めてくれた

山科で琵琶湖疏水船を降りて歩き出す
上の写真の180度映像をこちらからご覧いただけます
※桜の木の下の360度カメラの映像をこちらから

琵琶湖疏水船を降りればこそ、疏水が流れ込むトンネルの外を迂回する桜の道をあるけるのだ



左側に山科の街を見晴らしながらすすむ

右側は山になっている。その中を疏水のトンネルが貫通している。
トンネル試掘のためのアーチがあった



「自然にきれいに」咲いているわけではないのですね↓


**
疏水を渡り、少しのぼりの住宅街をのぼってゆく。

派手ではなくシックな住宅がならぶ
↓ちょっと休憩所。左上の紫色のは何?

★山科のゆるきゃら「もてなす君」なんだそうです
疏水の橋から十五分ほどで毘沙門堂の入り口に到着

みじかいが急な階段を登ると

仁王さんが番をなさっていて

くぐると、ここでも盛りの桜にむかえられた

この寺の縁起は八世紀にさかのぼるが、現在の場所に江戸時代の前半に再建されたそうな。
しかし、ご本尊は最長自身が彫った毘沙門天だと伝わっている。
お堂の内部には見るべき応挙の衝立画や狩野派の襖絵などいろいろあるようだが、今日この美しい空のある日にえらぶべきはこの桜だ↓

枝垂桜


勅使門がある↓

皇室の縁者が代々い門主をつとめる門跡寺院なのだ。

****
大津の三井寺下から回送しておいたタクシーとここで再会。
琵琶湖疏水の京都側終点になる南禅寺へ移動します


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琵琶湖疏水船 三井寺下⇒山科

2019-04-08 07:00:00 | 国内
疏水を見下ろす見事な桜

2/15の09:30、予約開始と同時にPCに向かってなんとか確保した琵琶湖疏水船の席(^.^)

全部で十二席しかないので、今回七席なんとかとれてよかった

**
びわ湖プリンスからタクシーで二十分ほどで三井寺下の乗り場に到着

船は09:15の出航だが「三十分前には来てください」とのこと。
解説や安全説明があるのだ。
↓解説ビデオは明治十四年からプロジェクトをスタートさせた第三代京都府知事北垣国道氏が語りだす

分かりやすく短い説明の後、ガイドさんが登場。
「トンネルの中は寒いですよ」と、
寒さ除けのコートを貸してくれた↓

そう、琵琶湖疏水は山の中をくりぬいたトンネルを通るのでけっこう冷える。

乗船は申し込み順だそうな。十二席は「い」から「を」まで、和式↓

飛行機にとりつけられているような安全装置を腰につける↓

↓水路を見下ろす桜並木はこの船に乗る人からしか見えない↓

出発して五十メートルも行かないうちに、疏水で最も長い第一トンネル2436mがはじまる↓

入口の扁額は「氣象萬千(きしょうばんせん)」伊藤博文筆だそうな↓

※出航の動画をこちらに載せました
↓入ってすぐに出口が見える↓真っ直ぐに2436mが掘られているのだ

振り返ると桜↓

空気がとたんにひんやりしてきた

このトンネルは建設当時日本で最長だった。
外国人技術者の手を借りず、はじめて日本人技師の総指揮のもとでおこなわれた工事。


大津から乗船したので疏水の水は進行方向に向かって流れる。つまり、この方向の船は逆方向より静かだ。

★トンネルをできるだけ早く掘りぬくためにどうするか?
ここでも日本発の立坑式を使っている。つまり、トンネルの両端から穴を掘るだけでなく、山の上からもトンネルを垂直に掘ってトンネルの途中地点に到達させて左右に掘り進めた。

その立坑が船の頭上に一瞬だけ見える↓シャッターチャンスは一度きり!

撮れた!この穴の壁はオリジナルの煉瓦のままであることがわかる。
思ったよりも狭い穴にみえた。

この第一トンネルは疏水工事の最大の難関だったからか、トンネル内にも扁額がある。
それも、シャッターチャンスは一度きり!

撮れた!最後の漢字一文字だけだけれど。
「寶祚無窮(ほうそむきゅう)」皇位は永遠だという意味だそうな
事前ビデオで登場していたこの疏水の立案者・京都府知事北垣国道の筆

疏水船は同じペースでゆっくりと進んでゆく。
前方の小さかった光がだんだんと風景になってきた↓

京都・山科も大津にまけない花盛りのようだ

トンネルを抜けて振り返ると↓

扁額の文字は↓疏水が完成した時の総理大臣山形有朋の筆

廓其有容(かくとしてそれいるることあり)
意味が理解できない…
京都市水道局の頁によると
「悠久の水をたたえ,悠然とした疏水のひろがりは,大きな人間の器量をあらわしている」

↓この橋の下の部分に、開通当時のレンガが見られる

↓この部分ですね




神戸淡路震災の後にとりつけられた遮蔽版


そろそろ山科の船溜まりに到着

三十分に満たないクルーズだったがじゅうぶんに価値があった

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びわ湖大津プリンスのボーセジュールで夕食を

2019-04-07 21:00:13 | 国内
《手造の旅》京都・大原と大津、二泊目。
浮御堂西教寺三井寺石山寺を見学して17時に、湖畔にそびえる大津びわ湖プリンスにチェックイン

※上の写真は昨年秋のもの

一般的なパッケージの夕食は洋食バフェか中華だというのだが、調べてみると38階のフレンチが追加料金(¥3500のプラス)で利用できるとわかった。
せっかくだからこれを選んだ↓チェックインしてすぐにテーブルを下見

メニューは多様でいちばん高い近江牛のコースは¥1万3千円まである。

○アミューズ↓
新玉ねぎ、トマトのコンフィ、牛肉とピスタチオのパテ


○サラダと滋賀県産紅鱒↓
左上はホタルイカのよう、真鯛の天火焼はその下?ぷちっとしたジュレに金箔がきれい


○カリフラワーのポタージュ、フランス産チョリソ添え↓



★ワインのセレクションは極上品までずらりとあったが
滋賀県産だというこれを↓

調べてみると、滋賀県の四つのホテルが地元の太田酒造というところと共同してつくっているものだった

これ、次回訪れても注文したい。

メインは肉かサカナをチョイス
○オマールエビにキャビアソース↓

↑イトヨリとマトウダイのグリル加減が絶妙
焼きすぎていないのがよい

↓メインコースを肉チョイスにするとこちら
○牛フィレグリルと鴨のフォアグラ、ポルトソース※写真がぼけてしまったので小さめでのせます


○近江牛のコースを注文された方には180グラムで登場


コース外だったが気になった方が注文されたリゾット

デザートは
○いちごの「デグリネゾン」とあるけれど、それって何?

調べてみると…ネットの「おしえてgoo」での質問・回答から意味がわかりました↓
「declinaisonの動詞delinerに『変格させる』という意味があることから、『材をいろいろ変化させて活用する』という意味」
要するにいちごを多様なかたちでデザートにして一皿にしている、のですね。

カフェにもこんなのがついてきます


充実した大津見学の日、楽しい夕食で〆ることができました(^.^)

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石山寺

2019-04-07 17:00:00 | 国内
石山寺にはほんとうに石山があるのだ↓※昨年10月の下見での写真

↑境内を入ってまっすぐいくとこんな場所にでる↓

8世紀に良弁(ろうべん)がやってきた時にはもっと大きな池だったのだろう
↓東大寺大仏建立のための黄金を探してやってきた時、岩の上で釣りをしている老人に出会った↓

↑岩の前に設置された看板に「縁起」からの絵が載せられていた。
この老人は地元の金毘羅神で黄金は別の場所で見つかることを暗示している

こんな経緯で、石山寺の名前ははじまったのか。
階段を登って、美しい多宝塔の下にまた大きな石が荒々しく見えている↓

↓降りる時に上から見下ろしたらこんな感じ


↓大石のすぐまえに良弁が地面に刺した杖がそのまま木になったという桜がある


石山寺の本堂は大石から左に折れてもう少し登ったところにある↓

↓なんと紫式部がここに滞在して「源氏物語」の構想を練っていた部屋がある

↓あ、奥におられました

***
少し戻って今度は塔のすぐ横にでた
鎌倉時代に源頼朝が寄進したそのままの姿を留めているのだとか↓

↓源頼朝と乳母の亀谷禅尼その娘で頼朝の第二妃だった亀の前の供養塔と伝わるものもある


ここにも芭蕉が詠んだ歌碑があった↓写真右

あけぼのはまだむらさきにほととぎす
左は紫式部の供養塔

***
石山寺の門を出て
↓湖に面したあたりにあったモダンアートのようなこれは何?

言われてはじめてこれが「シジミ貝」だと理解した。
すぐ近くに、昭和十五年に発見された「石山貝塚」を解説する看板があった。五十メートル×二十メートルの広さに、最も厚いところで二メートルに積もった貝の層。さらに五体の屈葬された遺体や石斧なども見つかったのだそうだ。

今では琵琶湖のシジミ貝はずいぶん貴重になっているとか。
近くの出ていた「シジミご飯」の看板が心配になった。



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