石山寺にはほんとうに石山があるのだ↓※昨年10月の下見での写真
↑境内を入ってまっすぐいくとこんな場所にでる↓
8世紀に良弁(ろうべん)がやってきた時にはもっと大きな池だったのだろう
↓東大寺大仏建立のための黄金を探してやってきた時、岩の上で釣りをしている老人に出会った↓
↑岩の前に設置された看板に「縁起」からの絵が載せられていた。
この老人は地元の金毘羅神で黄金は別の場所で見つかることを暗示している
こんな経緯で、石山寺の名前ははじまったのか。
階段を登って、美しい多宝塔の下にまた大きな石が荒々しく見えている↓
↓降りる時に上から見下ろしたらこんな感じ
↓大石のすぐまえに良弁が地面に刺した杖がそのまま木になったという桜がある
石山寺の本堂は大石から左に折れてもう少し登ったところにある↓
↓なんと紫式部がここに滞在して「源氏物語」の構想を練っていた部屋がある
↓あ、奥におられました
***
少し戻って今度は塔のすぐ横にでた
鎌倉時代に源頼朝が寄進したそのままの姿を留めているのだとか↓
↓源頼朝と乳母の亀谷禅尼その娘で頼朝の第二妃だった亀の前の供養塔と伝わるものもある
ここにも芭蕉が詠んだ歌碑があった↓写真右
あけぼのはまだむらさきにほととぎす
左は紫式部の供養塔
***
石山寺の門を出て
↓湖に面したあたりにあったモダンアートのようなこれは何?
言われてはじめてこれが「シジミ貝」だと理解した。
すぐ近くに、昭和十五年に発見された「石山貝塚」を解説する看板があった。五十メートル×二十メートルの広さに、最も厚いところで二メートルに積もった貝の層。さらに五体の屈葬された遺体や石斧なども見つかったのだそうだ。
今では琵琶湖のシジミ貝はずいぶん貴重になっているとか。
近くの出ていた「シジミご飯」の看板が心配になった。
↑境内を入ってまっすぐいくとこんな場所にでる↓
8世紀に良弁(ろうべん)がやってきた時にはもっと大きな池だったのだろう
↓東大寺大仏建立のための黄金を探してやってきた時、岩の上で釣りをしている老人に出会った↓
↑岩の前に設置された看板に「縁起」からの絵が載せられていた。
この老人は地元の金毘羅神で黄金は別の場所で見つかることを暗示している
こんな経緯で、石山寺の名前ははじまったのか。
階段を登って、美しい多宝塔の下にまた大きな石が荒々しく見えている↓
↓降りる時に上から見下ろしたらこんな感じ
↓大石のすぐまえに良弁が地面に刺した杖がそのまま木になったという桜がある
石山寺の本堂は大石から左に折れてもう少し登ったところにある↓
↓なんと紫式部がここに滞在して「源氏物語」の構想を練っていた部屋がある
↓あ、奥におられました
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少し戻って今度は塔のすぐ横にでた
鎌倉時代に源頼朝が寄進したそのままの姿を留めているのだとか↓
↓源頼朝と乳母の亀谷禅尼その娘で頼朝の第二妃だった亀の前の供養塔と伝わるものもある
ここにも芭蕉が詠んだ歌碑があった↓写真右
あけぼのはまだむらさきにほととぎす
左は紫式部の供養塔
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石山寺の門を出て
↓湖に面したあたりにあったモダンアートのようなこれは何?
言われてはじめてこれが「シジミ貝」だと理解した。
すぐ近くに、昭和十五年に発見された「石山貝塚」を解説する看板があった。五十メートル×二十メートルの広さに、最も厚いところで二メートルに積もった貝の層。さらに五体の屈葬された遺体や石斧なども見つかったのだそうだ。
今では琵琶湖のシジミ貝はずいぶん貴重になっているとか。
近くの出ていた「シジミご飯」の看板が心配になった。