旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

西教寺 明智光秀ゆかりの寺

2019-04-07 12:00:00 | 国内
内陣への門に見事な麒麟の彫り物があった

麒麟は世に仁政が行われようとする時に現れる瑞獣だが、時代の主役にはならない。
明智光秀ゆかりの寺を飾るのに相応しいかもしれない。

2020年の大河ドラマ「麒麟が来る」でとりあげられる
**
浮御堂のある堅田から二十分とかからない坂本にある天台真盛宗の寺。
門から桜並木の坂道が見通せる↓

↓立派な車がゆるゆる降りてくるのに出会った。
ナンバーを見て「いちばんえらい方の車です」とガイドさん

後部席で合唱しておられるのがちらりと見えた

塔中のならぶゆるゆる坂をのぼってゆく
鬼瓦の横には猿がたくさん飾られている↓

ここの守り神なのだそうだ。由来が書かれた看板があったが↓ちょっとわかりにくい。

★逸話
室町時代に比叡山支配への反乱が起きた際、その首謀者が西教寺だと誤解した僧兵が襲ってきたことがあった。
僧兵は鐘を叩く音がする庫裏に踏みこんだが、そこには座主の代わりに鐘を叩く猿がいた。



琵琶湖と桜の木々が眼下に見える場所までやってきた

この塀の向こうに入る門に麒麟が彫られていたのである。



塀の中も桜が盛りだった

そのむこうに明智家の墓があった

明智光秀は天王山で秀吉に敗れた後、ここ坂本の城を目指して落ち延びようとする途中、農民に討たれた。
一族は坂本城に籠り、そこで秀吉の軍勢にとり巻かれて火を放った。
※湖畔の坂本城は今はまったく残っていない
墓碑の中でいちばん左端にある小さな墓が光秀の妻・熙子(ひろこ)のもの↓

無名時代から光秀を支えた。自らの黒髪を売って連歌の席の代金を捻出した逸話がある。
亡くなったのは天正四年(1567年)ということだから、光秀が坂本城主になって五年。
夫の最期まで生きていなかったことも幸せだったかもしれない。
彼女の娘のひとりが細川ガラシャ
※昨年宮津を訪れたときの事を思い出した
こちらに載せております



芭蕉の句碑
月さびよ 明智の妻のはなしせむ


下に降りる途中、「これがもともとの階段だったと思われています」と教えてもらった↓

かつての寺の様子を少ししのぶことができた気がした。
立派な広い道も階段も、みんな後付のものなのだろう。


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