旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

浮御堂(うきみどう)

2019-04-07 11:30:00 | 国内
鎖(じょう)あけて 月さし入れよ 浮御堂

芭蕉が好きだったという浮御堂

昭和九年の室戸台風で倒壊した後にコンクリートの橋げたで再建されているのだが、基本的なカタチは芭蕉が見ていたものを再現しようとしているのだろう。
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京都・大原を朝十時に出発。
琵琶湖畔まで一時間とかからない近さなのにびっくり。
湖が見えてきた頃振り返ると、山の上に一週間前に降ったという雪が見えた
国道から住宅街に入り

突然湖畔に出ると目の前が浮御堂のある寺である。
その名も満月寺の龍宮門をくぐると、突き当りすぐに浮御堂が見えている

浮御堂の起源は十世紀。
比叡山から湖を見ていた僧・恵心が光る湖面を怪しんで訪れ、湖底から金の阿弥陀仏小像を見つけたことにはじまる。

室戸台風に破壊された御堂は、江戸時代に桜町天皇(在位1735-1747)が御所の能舞台を下賜したものだと現地の解説リーフレットに書かれていた。
そうすると、芭蕉が見たものはそれより前にあったものということになる。
どんな姿だったのかしらん。
***
御堂からの景色は、ガイドさんに解説してもらってぐっと面白くみえてきた
↓あの不思議な建物は湖水を監視している建物だとか

↑手前右手の杭は魞(えり)と呼ばれる琵琶湖伝統の定置網漁法なのだとか
「琵琶湖」という名前は江戸時代に普及した呼び名で、それ以前は「近江(おうみ)」が普通で、浜名湖を「遠江国(とうとうみ)」と呼ぶのは琵琶湖と対比しての名前だったのだとか。
へぇ~、教えてもらわないとわからないことだらけだ
↓琵琶湖大橋の向こうに見える「山」は、琵琶湖にある四つの島の中で唯一人が住んでいる沖島であること。桜もきれいな島らしい、一度訪れたくなった。

浮御堂のある堅田は平安時代末には京都の下鴨神社の管轄下に入り、湖の魚を献上するかわりに地域の湖上を支配する「湖族」の自治都市だったこと。
室町時代に叡山の焼打ちにあって壊滅し、住民は沖島に逃れたこと。※二年後に許されて戻る
古来の要衝ならではの逸話満載の大津だ。

浮御堂のすぐ近くに立つ句碑にSUP(スタンド・アップ・パドル)が近づく

これも近年に修復されたもののようだが、何と書かれているのだろう。

まだまだ時間をかけてみるべき場所がある堅田だった。













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