旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

天智天皇は三井寺に薬指を埋めたか

2019-04-07 13:41:08 | 国内
三井寺の本堂前にあるこの燈籠の下に天智天皇が自らの薬指を埋めたという伝説をきいてびっくり↓

↓解説版

西暦645年、後に大化の改新と呼ばれることになるクーデターで蘇我氏一族を滅ぼしたが、罪悪感から自らの薬指を切ってここに埋めたというのである。
これが真実とは考えにくいが、三井寺が西暦七世紀から存在する寺であることを示す逸話だ。

※現在の建物は秀吉の正室・北の政所が1599に建てさせたもので、本尊は天智天皇が信仰していた弥勒菩薩。秘仏で見られないのだが。

三井寺は天台宗の寺だが、八世紀最澄以前はどんなだったのだろう。
そう思っていたら、白鳳時代の発掘された瓦が展示されていた↓法隆寺の瓦を思い出させる

ガイドさんによると、この時代の伽藍はまったく残っておらず、今の駐車場あたりにあったと思われるのだそうだ。

建物や物はほとんど残っていなくても、名前は飛鳥時代から継がれている。
三井寺で知られているが、正式な名前は「園城寺」↓

天智天皇没後に起きた跡目争いで父を殺された大友与多王(よたのおおきみ)が自らの屋敷「田園城邑」を寺にする事を認められてこの名前をあたえられたという。
あたえた天武天皇も、自分が殺した甥の息子から「父と祖父(天智天皇)の菩提を弔いたい」と言われれば断れなかっただろう。

三井寺という名前は彼ら兄弟(天智天皇と天武天皇)と天智天皇の娘である持統天皇の三人が産湯をつかった湧水があることによる。それがこれ↓「園城寺閼伽井屋(おんじょうじあかいや)」

本堂とくっついている建物は本堂が建設された翌年の1600年にたてられたとされる。
中を覗き込むと、水音が…

「水は今ではポンプでくみ上げている」のだそうです
軒下に刻まれた龍は、日光東照宮の眠り猫で有名な左甚五郎作だそうな↓

この龍が「夜な夜な抜け出して琵琶湖であばれるので、甚五郎本人が龍の目に釘を打ち込んでしずめた」のだそうな
**
三井寺の晩鐘にも伝説がある。

昔、里の漁師が湖畔で子供らにいじめられている蛇を助けた。
やがてやってきて漁師の妻となった女は、琵琶湖に住む龍女だった。
正体を知られた彼女は、二人の間に生まれた赤ん坊を残して湖に去っていかねばならなくなった。
まだ幼くて乳をほしがる子供に自らの片目をくりぬいて舐めさせるように置いていった。
やがて舐めつくして片目がなくなってもまだ乳をほしがって泣く声をきいた龍女は、もういちどやってきた。
そして残った方の目もくりぬいて子供に与えてしまった。
目が見えなくなった彼女は漁師に一つの願いをした。
「子供が元気である証に毎晩鐘をついてください。私は湖からそれを聴いて安心するでしょう」


今は誰でもつくことができる鐘。一回さんびゃくえんーー


現在の鐘は1602年に鋳造されたものなのだが↓
※こちら三井寺のページに写真とデータがのせられています

昔の鐘もちゃんと保存されていて「弁慶のひきずり鐘」と呼ばれているのだ↓

↓これが、それ

↓この鐘は八世紀、つまり最澄によって天台宗がひらかれたころの園城寺にすでにあったと思われる↓なぜ、「弁慶のひきずり鐘」といわれるようになったのか、逸話も書かれている↓

比叡山の山法師が周辺の寺を攻めた話は今回いろんなところできいた。鐘を略奪することもあったのでしょうなぁ。

↓江戸以降の挿絵がそえられていた

ちなみに三井寺のゆるキャラは「べんべんくん」↓


↓となりにあった大鍋は僧たちの食事をつくっていたものと推察されている


***
今の山口県から、1602年に毛利輝元によって寄進・移築された「一切経蔵」がある

チベット仏教でよくみられる、一回まわせばお経を一度読んだことになるというシカケであります。

****経蔵から三重塔への道に小さな石橋「村雲橋」がある
↓今日は桜が見事

九世紀に三井寺を再興した智証大師円珍にまつわる話がある。
晩年この橋の上を通りかかった時、神通力により自分が修業した唐の青龍寺が火事になっていることを知った。
円珍が水を撒くと橋の下から村雲がわきあがり、中国に向かって飛び去った。
翌年青龍寺から鎮火の礼状がとどいたのだそうな。


*****
三重の塔は1601年に徳川家康が奈良にあったものを移築・寄進した室町時代のもの↓

こうして時代をみてくると、江戸初期にかけて徳川家康によって再興された寺なのだとよく理解できる

この塔のあるのが「唐院」と呼ばれるエリア。
天台宗寺院としての園城寺(=三井寺)の開祖円珍(814-891)の廟がある。
天台宗は九世紀にこの円珍が比叡山を降りたことで分裂した。
山門派(円仁を中心とする比叡山に残った)と寺門派(円珍と共に山を下りて園城寺に入った)。
前出の弁慶が釣鐘を強奪した話、これで事情がわかった。

******こちらも17世紀に移築されてきた「微妙寺」の前を通り
少し階段を登って

観音堂へ至る

さらにうえに展望台があるがそこまでいかずとも十分な眺望が楽しめる。
「観月舞台」もある


美しい景色を楽しむためのこの建築努力


↓いわゆる「大津絵」もあった

京都の寺社仏閣で見られるような本格的な絵というよりも、民衆の中で育ってきた素朴な絵画だということだが、良い味でてます(^.^)

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いっきに下まで降りてゆくと、こんな神社があった↓

絵馬にはこういうお願いが書かれております↓

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チャーターした車へ戻る途中で、琵琶湖から流れ出す疏水がちらりと見えた

明日朝はこの運河で京都まで行く。



三井寺をちゃんと見学しようとすると二時間あってもまだ足りません…
次は石山寺へ。大津は見所満載だ。



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