旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

《手造の旅》山形~羽黒山の石段を

2016-06-24 14:12:58 | 国内

「あらかじめ決められた事だけじゃなくて、面白いアイデアがあればなんでも言ってくださいね」

 

山形駅に到着後、バスガイドさんにお会いしてすぐにそう言った。すると、経験豊かなガイドさんが「羽黒山の五重塔、お聞きしている予定では駐車場から往復になってますけど、上から降りてくるのはどうでしょう。下りならだいじょうぶじゃないですか?無理な方は車で行っていただくことにして」とおっしゃる。

 

羽黒山の国宝・五重塔のある石段が急で長いのはあらかじめ知っていた。 なので、ここは五重塔だけ見て、上の本宮まではバスで行く事にしていたが、そうか、上から降りてくる手があったか。 

 

しかし、全部で何段あるのでしょう?

 

「二千四百四十六段です」とさらっとお答えだったので、皆さんついつい?歩くことにしたのだった。「バスで行く方は、運転手さんが五重塔まではお連れしますよ」とガイドさんが何度もアナウンスするが、みんさんすでに降りる気満々。

 

実際に降りはじめると、杉木立の中に延々と続く石の階段はそれを踏みしめてこそ味わい深い。「歩くことを選択してよかった」と、誰もが思った。

 

※下の写真は登ってゆく人を振り返って見上げた図↓

 

 

石段は江戸時代はじめに整備され、およそ三百五十年をもつ。杉木立も同様だ。一朝一夕でこの雰囲気にはならない。さすがフランスのガイドブック「グリーン・ミシュラン」の三つ星。

 

 

梅雨の真っ只中だが、幸い雨ではない。紫陽花のおだやかな水色が目に優しい 「石段のところどころに、とっくり、杯、ひょうたんが刻まれていて、これを三十三見つけると願いがかなうと言われているんです」とガイドさん。分かりやすい場所にあるものは、すぐに見つかった↓

 

 

しかし・・・二千四百段以上というのは、さらっと言われてさらっと歩ききるには、けっこうな距離だったと、あとから足が理解し始める。距離は1.7㎞。ほぼずうっと石段。あの「山寺」の石段の倍あるというのは、あとから知らされた。

 

「あ~休憩~!」

 

しんがりを務める小松も一緒にきゅうけい~(^^)。この石段を歩く人はそう多くはないから、立ち止まれば周囲は静謐な空気が流れる。足元ばかり見ているのはもったいない。振り仰げば、時間そのもののようにまっすぐ延びる杉の巨木たちが見下ろしている。

 

この石段「下り」は、「疲れたから止めて途中で引き返す」というのできない。だって、引き返すというのは、またこの急な石段をまた登ることを意味するのだから。

 

茶店を横に見ながら二の坂・一の坂と過ぎると、こんな看板が目についた↓

 

 

なんと!この場所には大きなお寺があったとうのだ。今はうっそうとした木々に埋もれる一角に赤い小さな鳥居があとから建てられているだけ。明治の廃仏毀釈で取り壊された寺は、こういう名刹であればそれだけ多かった筈である。そこで、どんなドラマがあったのか、我々はなかなか知る事ができないのだが。

 

突然、五重の塔の前に出る。高さ二十九メートルは、杉木立の中にあってもじゅうぶんに高い。

 

 

平将門創建という伝説だが、資料が確認できるのは南北朝時代・十四世紀からだそうだ。今は林の中にぽつんと建っているが、この塔もかつては寺院建築群のひとつだった。これひとつだけが壊されずに残されたのは、その美しさゆえだったのだろうか。今は大国主命(おおくにぬしのみこと)を祀っている。

 

このすぐ近くに、樹齢千年という「爺杉(じじすぎ)」があった

 

 

こちらも礼拝の対象になっている。人間の時間尺を超越した巨木を前にすると、人間の作りだした宗教はあまり意味をもたなくなってしまうようだ。※先日行ったセコイア国立公園(アメリカ)の写真⇒ご覧ください。

 

ここを過ぎれば、須賀の滝とそこから流れる祓川がすぐ。その名前のとおり、昔の参拝はここで清めてから石段をのぼりはじめたのだった。

 

「いでは文化センター」で、バスに戻り、今晩の宿・志津温泉「つたや」に向かいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

霧のサンフランシスコへ、ゴールデン・ゲート・ブリッジを渡って入る

2016-06-21 03:37:22 | アメリカ西部

サクラメントからサンフランシスコへ、いちばん早い道をいくならゴールデン・ゲート・ブリッジは通らない。しかし、サンフランシスコへは是非あの美しい橋を渡って入りたいと思っていた。

**気温摂氏四十度近いサクラメントを出て一時間ほど走ると、水郷地帯と見える一帯にさしかかる。そして、突然それまでと様子のちがう雲が前方に湧き上がった↓

ここはすでに広大なサンフランシスコ湾の奥に位置する「サン・パブロ湾」である。

 

霧の中に入ると、気温はいきなり下がった。それはゴールデン・ゲート・ブリッジが近づくと二十℃を下回るほどになり、霧も低くなっていった。そして、見えた・・・

通常のツアーならこのまま橋を渡るのだろうが、そこは《手造の旅》、大型バスが停車できない北側からも見学しにいきましょ。

車はいくつもある高台の展望台を左に見ながら上ってゆく。いちど遠くまで行ったが霧が濃くて見えないので引き返し、橋にいちばん近い高台で下車。入口には古い砲台跡があった↓

ここは十九世紀後半から二十世紀前半にかけて重要な防衛拠点だった⇒ 橋が建設されたのは1937年だから、この砲台のほうがずっと先に建設されていたのである。

第二次大戦ではこんな風だったのか↓

塹壕の上にあがると・・・見えた!?

風があって寒い! サクラメントの四十度がウソのよう。国立公園で使わなかった毛糸の帽子がここで役に立った。 しばらく塹壕で晴れるのを待つ。風で霧がながれているから、五分ほどで景色はがらりと変わった↓

 

橋の南側の定番展望台にもストップ。ここには橋の設計者ジョセフ・シュトラウスの銅像。この像は等身大よりずっと大きいが、本当の身長は150センチほどで「小さな巨人」と呼ばれていたそうな→

市内に入る半島の南側高台のツイン・ピークスからもサンフランシスコを見晴らす↓

さらに、フィッシャマンズ・ワーフ近くのコイトタワーへも登りましょう(^^)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サクラメント~州議事堂

2016-06-20 15:27:08 | アメリカ西部

カリフォルニア州議事堂は、他の多くの州の議事堂と同様に、首都ワシントンDCのの連邦議事堂に似たクーポラをもっている。

1860年から1874年にかけて建設されたもので、高さは64m ※ワシントンDCの連邦議事堂は88m。この時代らしく、ギリシャ神殿風の入口⇒

内部は荷物検査を受けるだけで誰でも見学できる。 

中心まで行って見上げるドームはまるで教会のよう⇒

真下には何があるのか?下の写真、何に見えるでしょうか?

白い大理石でつくられているのは、「イサベラ女王に航海の説明をするコロンブス」であります。

エレベーターには★カリフォルニア州の紋章

描かれているのは●サンフランシスコ湾に入ってくる帆船 ●金を掘る人 ●熊 ●知恵の神ミネルヴァ(アテネ) ●「エウレカ」は「見つけた」というギリシャ語。

クラシックな階段を上っていくと、州議会の傍聴席のある場所へたどり着く

廊下には歴代知事の肖像が掲げられているので、我々にも馴染みのある顔を探していたが、階段を登りきった三階にありました(^^) ●シュワルツェネッガー

●ロナルド・レーガンはのちに大統領になった⇒

偶然、ガイドツアーが下院(アッセンブリー)議会を見学しているのに遭遇。我々も見ることが出来た↓

下院(定数80)の部屋は緑を基調にしていて、正面にはリンカーンの肖像画が掲げてある。

同じ建物の逆棟にある上院(定数60)の部屋は赤を基調にしていて、正面には初代大統領ワシントンだそうな。

一階に降りて、正面玄関から外を見ると、正面にキンキラの橋が見える。あれは何?

こちらに書きました


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サクラメント~フォート・サターとゴールド・ラッシュのはじまり

2016-06-18 01:00:15 | アメリカ西部
金が発見される前のカリフォルニアは、開拓者もそう多くは行かない場所だった。
1839年、ドイツ系スイス人ジョン・サターが入植し、はじめての白人コミュニティ「ニュー・ヘルベチア」をつくったのがサクラメントのはじまりとされている。
訪れた日、復元された「ニューヘルベチア」の中心だったサター砦の外で星条旗をあげるレンジャー

ちょうど催しがある日で、当時の衣装を着た人がたくさんいた。



砦のすぐ外に立つサターの像

この日は中へ入れなかったが、二回目の訪問では見学することができた。
中庭にあるこの建物だけが、当時からのオリジナルだったと、あとから気付いた。
※後出の古い写真の建物と見比べてください↓

中庭に一門の大砲

これはロシア製だった⇒※こちらにもう少し書きました

ジョン・サターはヨーロッパで事業に失敗し、妻子を置いて新大陸に渡り、カナダやハワイを経てここまでたどり着いた。ここでたくさんのメキシコ人(当時ここはメキシコ領)を使い、先住民ともうまくつきあいながら居場所を得ていったのだ。
砦でつくって先住民たちに好評だったのが織機でつくった毛布だった↓

今でも製品を販売していた。当時もこんなのだった?

この砦にいったいどのぐらいの人が住んでいたのか、チケット売り場の人に訊ねてみると「確かでないけど三百人ぐらいかな?」とのこと。それにしては小さい?いや、よく解説を読んでいくと、ここが復元された時に、もとの大きさの三分の一のサイズにされていたのだった。

一時は栄えたこの砦は、19世紀後半にはいると壁もなくなって、廃墟のような状態になっていた。
サクラメントは度々洪水に襲われていたようだから、流されてしまったのかもしれない。
1887年⇒ 
1890年、修復が決定された段階


この時、もともと日干し煉瓦でつくられていた壁はレンガで代用され、砦の敷地は三分の一になった。こういった門構えは「いかにも」だが、オリジナルのものではまったくない↓↓

★1848年1月、サター農場の一角で水車小屋を建設していた時、ジェームス・ウィルソン・マーシャルという男が川の中に光るものをみつけた。サター氏がそれを調べてみると、まさに金だった。ここからゴールドラッシュがはじまったのである。下の写真はその水車小屋とマーシャルの肖像↓


ここから、ゴールド・ラッシュがはじまった。

一回目のコースでは、ジャクソンという金鉱で栄えた街にも立ち寄った六月でも暑い陽射しの下、ひっそりした、しかし当時の雰囲気を感じさせてくれる旧市街。

訪問した「ケネディー金鉱」は、大規模な採掘を行っていたが、坑道自体は水没してしまっている。東の竪穴の上に建てられたやぐらがオリジナルのまま残されていた↓

ジャクソンのあるサクラメントからヨセミテ方面への旧道には、何百もの採掘坑があり、そのすべてが採掘を止めていたが、近年、金の値段が高沸してきたことにより、再び採掘をはじめたところもあるのだそうだ。
金の夢はまだ終わってない。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヨセミテ~谷からの眺め

2016-06-17 23:28:53 | アメリカ西部

この六月の二回の訪問からご覧ください。

見上げる巨大な花崗岩の一枚岩「エル・カピタン」

この岩場を登っていた人を、きのうトンネル・ビューからみつけたっけ↓

ヨセミテ滝を二つを見上げる、どんなツアーでもお約束の「ヨセミテ」がこれ↓

下の滝がほぼ百メートル。上の滝はなんと七百四十メートル近い。

これだけの滝を楽に見学に行ける場所は世界でも少ない。ヨセミテシャトルバスはこんな風に車椅子対応⇒  ワンちゃんもOKだけど (^^)走り回るのは許されません。なぜなら、野生動物もすぐちかくでうろうろしているから 

谷を流れる川

湧き出る泉の水は、日本から持ってきたミネラル・ウォーターよりおいしいと感じた

谷から流れ出す川が国立公園を出ると、ラフティング・ボートがたくさん見られた

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする