旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

台南~成功大学、泰成水果店、赤崁楼、度小月

2020-02-16 18:02:32 | 台湾
《手造の旅》台湾五日~日本とのかかわりに注目して旅する 第二回 二日目

春節の名残がそこここにある

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烏山頭ダムから台南の街へはいって、成功大学(鄭成功にちなんで1956年に名付けられた)の中庭には入る。鄭成功についてはこのブログ内でもたくさん書いております。右上の検索空欄に「鄭成功」と入れて、右側を「このブログ内」にして右の検索マーク(虫眼鏡)をクリックしてください。

ここに、昭和天皇が皇太子時代の大正十二年(1923)に植えたガジュマルの巨樹がある↓

日本統治時代に軍の敷地から高等工業学校に変り、現在の大学に至るまでをずっと見守ってきた木。
これはとても幸いな事なのだ。

すぐ近くに「二番目に大きなガジュマル」があって、それは2015年の8月に台風で大きなダメージをうけたのだから↓

↓構内には清朝時代の城門のひとつが移設されている↓ゆっくり見たかったけれど時間が足りません

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フルーツ天国の台湾、地元人気店にも行ってみよう。
入れるかしらん?と心配したけれど、今日の午後からぐぐっと気温が下がって寒いぐらいになったせいか、空いていた。

ずらりと並んだ選び抜かれたフルーツ↓

これは何?

「釈迦頭」というのだそうで、すごく甘い。
英語で通称シュガー・アップルというのだそうな。

食べてみると、どこかで味わったことがある甘さ。
・・・そうだ!柿、ディーツ(なつめやし)、タマリンドと同系統の甘さにちがいない。
↓この店のマストはこのフルーツシャーベット(^.^)

↓少し凍らせた台湾マンゴーの砂糖漬

***
鄭成功の廟にも寄る。

※これについてはこちらに書きました

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赤崁楼では入口で体温チェックここはもともとオランダが建設した要塞のひとつだった↓
↓復元模型がこれ

↓現在のスタイルは鄭成功がオランダを追い出して以降の中華スタイル。もちろんこれも復元だが。

ここにある九個の石碑がおもしろい↓

※この亀と石碑の話はこちらに書きました
↓ここには他にも数えきれない石碑がある↓

多くは清国時代のものだが、日本時代に置かれたものがこれ↓

あれ?中華風?実は裏面に書かれている↓


写真でうまく入らなかったのだが、「昭和十九年」と記されている。

羽鳥又男は当時の台湾市長、戦禍の激しいさなかに文化を保護することに尽力していた人だ。
※この石碑についてこちらに書きました

↓壁は三層になっている↓いちばん下の部分がオランダ時代、その上(身長より少しうえぐらい)に清時代、いちばん上に日本が修復した部分↓


清時代には科挙試験の学問所にもなっていたので、学問の神様として「魁星」も祀られている↓

*****
夕食はいつもの「度小月」
↓ここでも入口で検温
↓ここのタンツー麺は台北の同系列店とも違う

エビ巻と、今日はカラスミとニンニク葱も
↓豚足も

↓デザートは「愛玉子(おうぎょうち)」

「愛玉子」はゼリーの部分を指す。
台湾固有の植物で山の中に自生するそうだ。
その果実が川につかってゼリー状のものが出ているのを発見したのがはじまりときいた。
これ、街角で売っておりました。
また、別に書きます。

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烏山頭ダムの「殉工碑」

2020-02-16 16:15:43 | 台湾
《手造の旅》台湾五日~日本とのかかわりに注目して旅する 第二回 二日目
椰子、ビンロウ、バナナ、パイナップル、魚の養殖、様々な農産物が収穫できる嘉南平原は、そこに供給する水があってはじめてこの風景になり得た
烏山頭ダムと共に付設された灌漑用水は14000㎞以上にもなる。

1920から十年をかけて金沢出身の八田與一が完成させた

※昨年訪れた時のブログに経緯をもう少し書いていますのでごらんください
記念館から急な階段を登って堰堤にいく途中に、建設途上で亡くなった人たちの「殉工碑(=慰霊碑)」があるときいて訪れた↓

八田氏自身が書いたという献辞↓完成した1930年とは昭和五年↓

女性の名前がたくさんあって不思議に思った。
よく読んでいくと、そこには現場で亡くなった人々と共に、いっしょに暮していてマラリアなどの病で亡くなった家族の名前も刻まれていたのである↓

難工事で亡くなった人々には、日本本土からの移住者も台湾にもともと住んでいた人々もあった。
「慰霊碑には日本人の名前だけでよい」という意見を退け、全員を亡くなった順に記した。

日本領土となってから三十五年を経て安定的な統治が繁栄の成果をあげはじめていた時期。
八田與一は「すでに同じ日本人である」という意識を持っていたのだろう。
十五年後の敗戦など誰にも予期することはできない。

「分け隔てなく」記したはずの名前を見ていて疑問に思ったことがある↓
↓「組合員」とそれ以外を明確に区別して表記している↓

民族は差別なく表記できた八田與一だが、組合についてはそうはいかなかった?
その事情が分かる方があればぜひ教えていただきたいです。

↓ダムが見える位置にダム完成の翌年に置かれた、リラックスした八田の像
↓よくあるいかめしい銅像を本人が好まず、この姿の方がよいとしただそうだ。

↑後ろには夫妻の墓がある

ダムの堰堤から降りたあたりに八田與一一家十人が住んだ家が復元されている↓
↓こちらは正面玄関を入って左からすぐに入れる洋室の応接間↓

ここ以外はすべて和室
↓裏口すぐに風呂場があるのは↓現場から泥だらけで帰宅することが多かったのだろうと想像させる

この家が復元された時、八田の出身地金沢の北國新聞社が家に置く同時代の家具の寄付を呼びかけた。
すると、それに応じてたくさんの家具があつまり、コンテナ二つ分が台湾に送られてきた↓

「その時『置き方が分からないので手伝ってください』と連絡がありました」とガイドさん。

今はもうなくなっているが従業員宿舎も隣接して存在し、四百人以上もが暮らしていたのだそうだ。
家族を連れて、生活の全部をここですごしていたのは日本人も台湾人もかわらない。
★北國新聞が主導して製作した「パッテンライ!! (八田來)」という映画がある
※予告編をこちらから見られます※音出ます

主題歌を台湾ルーツの一青窈が手掛けている。
中国語版、youtubeでも見られるようです。
※烏山頭ダムの概略をしっていれば理解できる内容です












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竹田駅の「池上文庫」、お寺食堂でランチ

2020-02-16 13:46:30 | 台湾
《手造の旅》台湾五日~日本とのかかわりに注目して旅する 第二回 二日目
竹田駅は2013年に現在の高架になっているが↓

↓日本時代の駅舎もそのままのこされている↓

かつての駅員さん宿舎には井戸と↓

↓そこからひきこまれた水をためる風呂↓

焚口がみあたらなかったのだけれど??
**
日本統治時代に近くの病院に勤務していた軍医が池上一郎氏。

彼が生まれた1911年、台湾はすでに日本になっていた。
竹田へやってきたのは1943。
戦禍が激しくなる時期ではあるが、日本の統治成果がしっかり定着していた。
二年ほどの滞在だったが、日本人と地元の人々に区別なく献身的に医療を提供して感謝された。
敗戦後、日本に戻ってからも台湾からの留学生を支援し続け、その縁で池田氏が「第二の故郷」竹田に蔵書群を寄付することになった。

オープンした2000年1月16日の誕生日には九十歳で存命だったが、数か月後に亡くなられている。

こういう場所が維持され続けるには地元の人々の力が欠かせない。
日本語が達者なわけではない年代の人々が管理をしてくださっている。
訪れる日本人が寄せ書きをする日本国旗↓

促されて我々も参加

志にと、寄付をしたメンバーに奥からTシャツを出してきてくださったちゃんと二片制の領収書をくださった。

***
今回、南部の案内をお願いしたガイドさんはまさにこの近くの出身で、子供の頃にお父さんとよく来ていた小さなレストランを紹介してくれた
それがここ↓え?お寺

なんと、現役のお寺をつかっている。
お昼時、近所の人がとぎれずにやってくる↓

少し待つとテーブルが空いた。大人数団体では入れません。

「お餅の皮でつくった団子はぜったい口にあいますよ」(^.^)と、ガイドさん↓

菊菜の風味がさっぱりしてよくあう(^.^)団子の中はこんな↓

この麺は昨夜食べた客家の板条麺の種類だ↓米で出来ている

↓こちらの麺は胡麻味のペーストがこってりしているので…

さっきの「餅団子のスープをかけるとちょうどよいですよ」とガイドさん。
ああ、ぴったり合います。さすが、子供のころから来ている人のアドバイス(^.^)

デザートにはさっき竹田駅近くで買ったこぶりな台湾バナナを


バナナがそんなに好きでない小松でもおいしかった。
現役のお寺なので、向かって左手の虎の口から出ましょう(^.^)


午後は烏山東ダムを経由して台南へ向かおう
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打狗(高雄)のイギリス商館跡とハマセン地区を見てから電車で九曲堂へ

2020-02-16 05:28:57 | 台湾
《手造の旅》台湾五日~日本とのかかわりに注目して旅する 第二回二日目
アヘン戦争、アロー号事件。
イギリスは台湾島では1858年に当時「打狗(現地先住民が「ダーカウ」と呼んでいた発音に漢字をあてた表記)」に商館を開き、領事をおいた。
目の前が海のその場所に復元された商館↓

人形が扱っているのはウーロン茶の木箱ですな

目の前の島との間の狭い海を大きなタンカーが抜けてゆく

↑写真で右奥に見えているのは日本支配時代につくられた灯台
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2020年2月16日朝八時半、きのう夕方到着した時と同じぐらい暖かい高雄。
日本統治時代にはいって1908年の年計画で埋め立てられたハマセン(まさに臨港線路があったことでそう呼ばれ続けているエリア)地区を少し歩く。駅前には銀行や商社、日本式の宿が並んでいた。

今も一部が残り、ここ二十年ほどでこれらを保存する運動がもりあがってきている。
↓日本時代に高雄という名前をカタカナで図案化した紋章↓

イギリス人は漢字が読めなかったから「打狗(犬を打つ」でも気にしなかったが、日本人は同じ漢字を使う民族としてあまり好きではなかった↓

それで1923年に、日本語で同じ音となる「高雄」に変名したのだ。

日本風の旅館の窓に戸袋が残っている↓

過去を再発見していくと、真ん中の人物だけを切り取った不思議な写真が見つかった↓

↑そこに誰が居たのか、なぜ切り取られたのか、いまだにわからないので、手がかりを求めてこんな風に街角にはりだされている。

ハマセン地区から、かつての臨港線鉄道にそって新しいトラムが走り出した↓

スペインが手がけたという最新式

港を右に見て南へ進むと新しい高雄が見えてくる↓その象徴がこの85階建てのビルだろう↓

漢字の「高」を形にしている↑
「展覧館前」で下車し、今度は一般鉄道に乗り換える↓現代的なデザインの駅

地下にあるトイレは入口にあるこんな表示でどこが空いているのかわかる

イージーカード(台湾のSUICAみたいなもの)で乗車

二十分少し乗る間に、川を越えて屏東市へ入った。
「九曲堂」という駅に到着↓ここはパイナップル畑と工場で栄えた場所

駅前にもパイナップル農民の姿




この駅の近くに、鉄道技師だった飯田豊二の記念碑がある。

台湾を縦断する北は基隆港から南は高雄(当時はまだ打狗)まで四百キロの鉄道が開通したのは1908年。
だが、その南の川を越えた屏東への鉄橋は1913年に完成した。
それを手がけた伊藤豊二という人物の記念碑。
完成の前に四十歳という若さで亡くなっている。

その鉄橋2008年の洪水で流され、川の途中で切れている↓

1992年には開通していた北側を通る現在の鉄橋より撮影↑
台湾島の鉄道敷設は清朝末期に北部ではじまってはいたが、ごく一部だった。
日本時代には全島で産業を育てるために鉄道網がはりめぐらされていく。
木材、サトウキビ、パイナップル…輸送手段がなければ安定的に発展させることはできないから。

**九曲堂駅近くには今もパイナップル工場だった建物が残る
★台湾のパイナップル産業に日本がどのようにかかわったかについてこちらに書きました

9時半のオープンと同時に入場

この時間ならば、人気のパイナップルケーキがあるはず・・・あった!

毎日ここで焼き上げてパッケージに入れている。ここでしか手に入らないという逸品。
世の中のパイナップルケーキの餡は冬瓜を入れ佐藤も加えてねっとり感を出している。
ここのはパイナップルの量が多くて実の繊維が感じられ、よりパイナップルらしい味わいだ。
下見の時には夕方でもう売り切れていたので、今日は買えてよかった(^.^)

パイナップル工場は最盛期に乱立し、原材料費が高騰したので政府が会社の統合を指示↓「合同パイン」という官制談合のような会社に統一されていった↓
当時のラベルがずらりと飾られている。

再び電車に乗って「竹田駅」に向かう
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