旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ワーテルロー~ナポレオン百日天下の終わり

2019-11-09 16:00:00 | ベルギー
1815年6月18日、ブリュッセルの南十五キロほどのこの場所でナポレオンの百日天下が終わった。

この緑の丘は五年後の1820年にオランダ王が(当時ベルギーという国はオランダの一部だった)建設させた人工のもの。

↓頂上にはナポレオン軍の大砲を溶かしてつくったライオンが立つ。

英語で読めばウォータールー

二百年前にすでに、激戦を偲ぶ人々が訪れる場所として整備されていたのだ。
二百段ほどの階段でライオンの足元まで登ることができる
頂上から下を見下ろす


白い円形の建物は1911年に完成。
激戦の様子をわかりやすく見せてくれるパノラマ絵画館↓

高さ十二メートル、長さ百十メートルの巨大油絵である。




**
2015年、この地下に最新の博物館が建設された。
アンシャン・レジウム、フランス革命からナポレオンの登場、順を追って解説される

トラファルガーの海戦
ロシア遠征
1814年の4月に退位させられ地中海の島に幽閉されたが、一年後に脱出しパリを目指す
↓カンヌ近くに上陸してからパリまでの日々が、日を追って解説されている↓

パリのルイ十八世(ルイ十六世の弟)は討伐軍を派遣するが、グルノーブル近くのラフレーの野で討伐軍がそっくりナポレオン側に寝返ってしまう↓戦わずして悠々とグルノーブルに入城するナポレオン↓

ルイ十八世はゲントに逃亡し、世に言う「ナポレオンの百日天下」がはじまったのだが…
それにまったをかけるイギリス、プロイセンなどの勢力と、ここワーテルローで最終決戦となった。
↓戦いの前夜、合議するナポレオン側の将軍たち↓


激戦は実質三日間で終わった。

2012の発掘調査によって発見された一兵士の骨↓

装備などからイギリス側だったと判明。戦いのはじめごろにフランス側の弾によって倒れ、友軍が埋葬した形跡があったそうだ。
身元を調べる努力もされたがわからなかった。
彼の骨をこうして博物館に展示するべきか、議論はあったが結局このかたちになった。


ブリュッセルに向かおう

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

FOLON財団美術館②

2019-11-09 14:00:00 | ベルギー
フォロンが日本文化に興味津々だったことは、彼が日本から出したこの葉書をみればわかる↓

↓どこにでもあるもので、他のどこにも存在しないものをつくりだしている

フォロンの造形は晩年になるほど多様化していった。
どこにでもころがっているモノに別の価値をあたえていく様は、晩年のピカソをおもいださせる

何度も同じモチーフを繰り返す


↓アトリエの様子が再現されている↓


うずくまるネコ

ネコ派だったな、フォロン

↓二つの建物を移動する時には一度外にでなくてはならい
↓すぐ外にこんな人が↓

入場する時にもらったパスコードを入力してもう一つの建物に入る

↓フォロン自身が語っている映像

↓最後の方で真っ暗な部屋に入ると、ゆっくりと人が梯子の上に倒立する↓

↑「出初式」と誰かが言ったけれど、日本で見たのかもしれませぬ
↓売店にあったクレヨン

**
この棟には「青い男」という名前のレストランが併設されている↓今日はここに席だけ予約をしてもらっていた



↓すぐ近くのリンゴから絞ってきたような新鮮さ


「青い男バーガー」は肉の美味しさたっぷり




ワーテルローに向かいます


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

FOLON財団美術館①

2019-11-09 13:19:33 | ベルギー

ベルギーの《手造の旅》をはじめて構想した十年前から、ぜひ行程に入れたいと心に秘めていたフォロン財団美術館


フォロンは1934年ブリュッセル近郊に生まれ-2005年モナコにて没

↑1973年の「異邦人」というこの作品が、エルトン・ジョンのデビューレコードジャケットに使われていたのが最初の出会いだった。
※この絵についての個人的な記憶をこちらに書きました

**
ブリュッセルの南、公共交通機関ではアクセスできない森の中にある

駐車場からも

未舗装の道をしばらく歩く

秋の盛り

この場所はフォロンが少年時代に訪れていた森の一角。
水鳥あそぶ池や

城館も点在している

六十代になってから彼自身が選んで建設した財団美術館も古い建物を改装している

「コ」の字型をしていて、二つの棟に分かれている

この帽子の男はフォロンがよく描くイメージ。彼自身だとも誰でもが自分を投影できる人だともいわれる。

入口で簡単な手続きをすると、壁にあった巨大な扉がゆっくり開いた↓

ここが入口だったのだ
彼の作品を使った本の表紙↓小松左京のSF作品も、なるほど合います

アメリカで評価されるようになると、時事雑誌の表紙を何度もてがけた。
やさしい・浮世離れした作風だけれども、社会的な問題に対する発言をしない人ではなかったのだ。

はっきりと主張のある、それでいて嫌悪する人はあまりいないように見える作風。

ステンドグラスもデザインしていたのか



その②に続く

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

はじめてのルーヴェン

2019-11-09 09:00:00 | ベルギー
ベルギーで大学都市と言えばルーヴェン。
※フランス語ならルーヴァン
美しい街だときいていたので一度訪れてみたかった。
↓この装飾でいっぱいの建物が市庁舎↓

↓となりに見えるピーターズ教会よりも派手↓

ピータース教会は地盤が弱くて塔を建てられなかったからなおさら地味。
こんな「鐘つき男」はおりますが

市庁舎のとなりにある、いわば宴会場「ターフェルロンド(円卓)」もすばらしい↓

この建物は我々が宿泊したホテル!※最後に内部の様子をお見せします
到着した時の夜景↓

ルーヴェンの市庁舎はブリュッセルよりも低いが装飾はこちらの方が美しいと言われている。
それは、ブラバント公爵の宮廷がブリュッセルに移転する前にはルーヴェンにあったから。
いわば首都であったから。
↓市庁舎は1448年から1469までに建てられたとガイドブックに書かれていたりするが、彫刻にはナポレオンも出てくる↓

↓髭が立派なベルギー二代国王レオポルド二世↓

つまり、これらの彫刻は19世紀に飾られたものだ。

市庁舎と教会の広場に大学町としてのマスコット像「フォンスケ」がある↓

半分になったアタマに「知恵の水」を注いでいるのだそうだが、ビールを注いでいるように見えてしまう。
「フォンスケ」はアルフォンソというスペイン系の名前からきているが※ベルギー領はかつてスペインが支配していた土地
「泉」という意味もあるのだろう

ルーヴェン・カトリック大学五百五十年を記念して1975年に設置された像

↓ミュージアム↓


↓大学図書館のそびえる広場に出た↓

この図書館は第一次大戦当時無残に破壊されたが、再建にはアメリカと日本が多額の資金援助をした。
↓再建された建物の二つの角に↓
アメリカのシンボル白頭鷲↓

↓日本のシンボルに狛犬と菊の御門


↓広場の真ん中にある巨大な虫の刺さった柱↓

かの昆虫博士ファーブルの曾孫がアントワープ出身のアーティスト、ヤン・ファーブル。
玉虫の羽の巨大な作品が王立博物館入ってすぐに展示されていたことがある。

↓大学の町らしい?(笑)




街をあるけばひっきりなしに寿司屋の看板がある

**
今回のルーヴェン滞在でどうしても触れておかねばならないのが、宿泊したターフェルロンドホテル。
↓すっきりとモダンできれいなホテルなのだが…

↓ベッドから洗面所へのとびらがない!

便器とシャワーが同じ床に続いている
日本人にはちょっと馴染みにくい空間なのだけれど、ヨーロッパの方々はこれでOKなんでしょうか?
カーテンが電動なのはいいのだけれど、表示ボタンが小さすぎてどこをおしたらいいのか分からない

バリア・フリーに見えて、バリアだらけの部屋に思えた。
↓朝食のコーヒーマシンも最新式すぎて…

みんなで囲んで思案してしまいました
歴史的な建築で雰囲気はとてもよいのですがねぇ…



***
ルーヴェンが世界に発信するステラ・アルトワ・ビール


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする