1815年6月18日、ブリュッセルの南十五キロほどのこの場所でナポレオンの百日天下が終わった。

この緑の丘は五年後の1820年にオランダ王が(当時ベルギーという国はオランダの一部だった)建設させた人工のもの。

↓頂上にはナポレオン軍の大砲を溶かしてつくったライオンが立つ。

英語で読めばウォータールー

二百年前にすでに、激戦を偲ぶ人々が訪れる場所として整備されていたのだ。
二百段ほどの階段でライオンの足元まで登ることができる
頂上から下を見下ろす


白い円形の建物は1911年に完成。
激戦の様子をわかりやすく見せてくれるパノラマ絵画館↓

高さ十二メートル、長さ百十メートルの巨大油絵である。


**
2015年、この地下に最新の博物館が建設された。
アンシャン・レジウム、フランス革命からナポレオンの登場、順を追って解説される

トラファルガーの海戦
ロシア遠征
1814年の4月に退位させられ地中海の島に幽閉されたが、一年後に脱出しパリを目指す
↓カンヌ近くに上陸してからパリまでの日々が、日を追って解説されている↓

パリのルイ十八世(ルイ十六世の弟)は討伐軍を派遣するが、グルノーブル近くのラフレーの野で討伐軍がそっくりナポレオン側に寝返ってしまう↓戦わずして悠々とグルノーブルに入城するナポレオン↓

ルイ十八世はゲントに逃亡し、世に言う「ナポレオンの百日天下」がはじまったのだが…
それにまったをかけるイギリス、プロイセンなどの勢力と、ここワーテルローで最終決戦となった。
↓戦いの前夜、合議するナポレオン側の将軍たち↓

激戦は実質三日間で終わった。
2012の発掘調査によって発見された一兵士の骨↓

装備などからイギリス側だったと判明。戦いのはじめごろにフランス側の弾によって倒れ、友軍が埋葬した形跡があったそうだ。
身元を調べる努力もされたがわからなかった。
彼の骨をこうして博物館に展示するべきか、議論はあったが結局このかたちになった。

ブリュッセルに向かおう

この緑の丘は五年後の1820年にオランダ王が(当時ベルギーという国はオランダの一部だった)建設させた人工のもの。

↓頂上にはナポレオン軍の大砲を溶かしてつくったライオンが立つ。

英語で読めばウォータールー

二百年前にすでに、激戦を偲ぶ人々が訪れる場所として整備されていたのだ。
二百段ほどの階段でライオンの足元まで登ることができる

頂上から下を見下ろす


白い円形の建物は1911年に完成。
激戦の様子をわかりやすく見せてくれるパノラマ絵画館↓

高さ十二メートル、長さ百十メートルの巨大油絵である。


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2015年、この地下に最新の博物館が建設された。
アンシャン・レジウム、フランス革命からナポレオンの登場、順を追って解説される

トラファルガーの海戦

ロシア遠征

1814年の4月に退位させられ地中海の島に幽閉されたが、一年後に脱出しパリを目指す
↓カンヌ近くに上陸してからパリまでの日々が、日を追って解説されている↓

パリのルイ十八世(ルイ十六世の弟)は討伐軍を派遣するが、グルノーブル近くのラフレーの野で討伐軍がそっくりナポレオン側に寝返ってしまう↓戦わずして悠々とグルノーブルに入城するナポレオン↓

ルイ十八世はゲントに逃亡し、世に言う「ナポレオンの百日天下」がはじまったのだが…
それにまったをかけるイギリス、プロイセンなどの勢力と、ここワーテルローで最終決戦となった。
↓戦いの前夜、合議するナポレオン側の将軍たち↓

激戦は実質三日間で終わった。
2012の発掘調査によって発見された一兵士の骨↓

装備などからイギリス側だったと判明。戦いのはじめごろにフランス側の弾によって倒れ、友軍が埋葬した形跡があったそうだ。
身元を調べる努力もされたがわからなかった。
彼の骨をこうして博物館に展示するべきか、議論はあったが結局このかたちになった。

ブリュッセルに向かおう