旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ブルゴス昼食⇒フロミスタ⇒カリヨン・デ・ロス・コンデス⇒レオン

2012-05-21 21:41:06 | スペイン
《手造の旅》北スペイン、第五日目、午後。
午前中、ブルゴス大聖堂とミラ・フローレス修道院を見学。最後に大聖堂を見下ろす丘の上にのぼってみた。
降りてきたところにある14世紀のサン・エステバン教会。
川に近い広場の柱には、「洪水の時ここまで水がきました」の線がひかれている。

今日もお昼は豊富なピンチョスで美味しく、しかし軽く、いただきましょう。夕食はレオンのパラドールですから。
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フロミスタに着く頃、きもちのよい青空になった。
11世紀のサン・マルティン教会が美しいフォルムを見せてくれている。

巡礼宿アルベルゲがすぐ隣にある。洗濯物がたくさん干されている。カフェも表のテーブルを開放してくれた。こういう時にはここでゆっくりする時間をとろうじゃありませんか。※この教会についてはここにも書きました。
***
カリヨンはエル・シドの娘たちが嫁いだ街として、「シドの歌」にも描かれている。つまり、11世紀からそこそこの街だったのだ。
12世紀のサンチャゴ教会が見所。
ロマネスクとゴシックが混ざり合った彫刻が入口を飾っている。
特に当時の職人達のリアルな仕事風景が興味深い。

教会自体は、オリジナルの(多分石のヴォールトの、あるいは木製だったかもしれない)屋根が落ちてしまったあとに鉄の屋根を乗せていた。

***
レオンのパラドールに到着したのは18時過ぎ。
夕食にはまだ二時間以上あるので街を少し歩く。ガウディのつくった百年前のオフィスビル。ベンチに座っているブロンズの人はガウディその人。

大聖堂は明日来るけれど先にちょっとだけ
街を歩く
マヨール広場はマドリッドの小型版といった感じ。※拡大してごらんください。

城壁はローマ時代からのものを基礎にもっている「道のマリア教会」はいかにも巡礼たちのための場所。
軒先の彫刻が面白い
ここにもまた「許しの門」がある。力尽きてサンチャゴまで行くことを断念した巡礼でも、ここまで来ていればこの門をくぐってサンチャゴまで行ったのと同じ功徳を得られることにしてもらえる。そういう門なのだ。夕暮れて、というのはまだ早いがパラドールを目指そう。

さぁ、お楽しみ!パラドールのディナーへ
つきだしはハモン
グリーン・アスパラ!これが最高だった。
チーズソースのかかったポークサーロイン

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夕食のあとに、パラドールの中を案内してくれるように頼んであった。22時半だが、こちらでは普通の時間。暗い回廊をぬけて真っ暗な礼拝堂を見せてくれる。
「ここはナポレオン時代には四千人もの人を収容した監獄でした」
はい、知ってはいたけれど、あらためてこの風景を前にして言われるとコワイかも。
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ブルゴス大聖堂、ミラ・フローレス修道院

2012-05-21 18:31:03 | スペイン
《手造の旅》北スペイン、第五日目、午前ブルゴス観光。
ブルゴスは1037年から1492年までカスティージャ+レオン王国の首都。つまり、この時代の最高のものが集まる場所だった。大聖堂がその代表。
1221年という中世らしいゴシックの大聖堂は、スペイン第三位の大きさを誇る。一位セビリア、二位トレド、なのだけれど、美しさにおいてはこのレオンが一番のように思える。

身廊と側廊が交差した部分この下にブルゴス出身の一番有名な人物の墓がある。
エル・シッドというアラブ人が付けたあだ名で歴史に名を残すこの人物の本名はロドリゴ・ディアス。王と不和になり国を出て地中海沿いヴァレンシアのアラブの国を倒し、一時は「王」を名乗った男であった。

1099年、彼はヴァレンシアで死んだ。妃ヒメーナはその後三年ヴァレンシアを維持したが、ついに追われて生まれ故郷のブルゴスへ戻る。その時夫の遺骨を持ち帰ったのだろう。エル・シドの墓は1921年にここへ落ち着くまで13箇所も場所を移したということだ。最後の大聖堂の交差部を見上げると「エル・シドの王冠だ」と、現地のガイドさんは言った。

この大聖堂の基本プランは、13世紀にゴシック聖堂建設の最盛期のフランスを旅したドン・マウリシオ司教が持ち帰った設計図を元につくられた。彼の墓が聖歌隊席の真ん中に置かれている。
設計図だけでなく、それを実際に建設した人々も、外国からたくさんやってきた。この美しい階段はディエゴ・デ・シロエというフランドル人二世の作。父はフランドル人GILヒル(スペイン語読み)・デ・シロエ。
大聖堂の北側は山の方向、地面が高くなっているのでこのような階段が必要になった。これはパリのオペラ座階段の元になったと言われている。

大聖堂で最も美しいと言われるのは「Cappela del Condestable=元帥礼拝堂」
天井の星

ここを建築したのはドイツ系二世シモン・デ・コロニア。父がケルンからやってきたJuanフアン(ドイツではヤンだっただろう)。

サンタ・アナ礼拝堂の木彫祭壇も超絶の出来栄え
これは先ほどの階段を設計したディエゴの父、ヒル・デ・シロエの残した作品。

聖母の生涯を描いているが、左下の方に当時の司教とその秘書の姿も彫り込まれていて、そこが特にリアル。
すぐそばに彼らの墓がある。ど真ん中司教ドン・クーニャ秘書官は壁際に

そして、ヒル・デ・シロエ本人もまたメガネ姿で登場している。

**
近くのミラ・フローレス修道院は、イサベル女王が両親の墓をそこに造らせた事で有名になった。
この超絶の木彫祭壇もヒル・デ・シロエの手に寄る。
彼本人はここでもまた登場。柱の影から見守る。
この墓碑大理石彫刻も素晴らしい描写力。

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