「国立」の街が、満洲の長春の街区に酷似していることに着目し、この街の成り立ちの経緯を調べ、いくつかの問題提起を行った珍しい本。
本書では、国立の成立には、医者であり、満鉄総裁でもあった後藤新平が深く関わっていたと推測されている(「都市研究会」の人脈)。新平は若いころに都市計画あるいは測量に関心をよせ、台湾、満洲でいくつかの都市建築を指揮した経験をもっていた。その国立市は西欧の近代都市(ベルリンのウンター・デン・リンデン、パリのシャンゼリゼ通りなど)を範とする人造の田園都市であり、神田にあった一橋大学が関東大震災を契機に、当時の谷保村に移転する案が煮詰められ、「くにたち大学町」として具体化された。
この「くにたち大学町」の特徴である道路が囲む矩形の構成は台北の三線道路に構造的に酷似し、また都市計画図は加藤与之吉が創ったといわれる満洲の長春や奉天の都市計画図が、新平から箱根土地株式会社の堤康次郎と中島陟(設計)に受け継がれたのではないかというわけである。
著者はこの関係とともに、堤康次郎と当時の佐野善作学長との間にかわされた「覚書」にも注目し、「くにたち大学町」の成立の経緯を細かく分析している。この覚書には、上下水道の敷設、駅舎や停車場の用地提供、広い並木道の構想が示されているという。さらに取り壊された、ユニークな姿をもっていた旧国立駅舎は誰によって設計されたのかと問い、それは建築家ライトの影響を受けた河野傳ではないかと推定している。
著者はさらに、このように「くにたち大学町」が歴史的価値、文化的価値をもつものであるので(日本最初のロータリー?、富士山を通景、大正から昭和にかけての建築物群)、それらが次世代に引き継がれなければならないと結論付けている。
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