【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

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福田千鶴『江の生涯-徳川将軍家御台所の役割-』中公新書、2010年

2013-06-30 22:23:18 | 歴史

          
 
 「江」(1573~1626年)は浅井三姉妹の末娘。彼女の実像が、極度に限られて資料をもとに、語られている。彼女については、虚像がふりまかれている。徳川二代将軍、秀忠の妻だったが、6歳年上の姉さん女房で、多産のうえ、嫉妬心が強かった、と。筆者は、彼女をこの虚像からそろそろ解放してあげたいと言っている。


  本書の内容は、その「江」の人生とその周辺の人たちとの関係を、彼女の3度の結婚を軸に解き明かし、その自分実像を彫琢していることである。小谷の方(織田市)を母に、浅井三姉妹の末娘として生まれた「江」は11歳で母を失い、父母の仇でもある伯父信長や義兄(養父)秀吉の庇護のもとで幼少期を過ごし、三度目結婚で徳川秀忠の妻となった。「江」と秀忠の間に生まれたのは、千、初の二女と忠長の一男(通説では、二男五女の子宝に恵まれたことになっているが、千、初、忠長以外の子は、「江」以外の女性からの出生であるという)。この事実を、著者は江戸時代の系譜や家譜にみられる作為、当時の大奥の制度(あるいは侍妾制度)、状況証拠、先行研究などから解明している。

   最初の結婚は知多の領主、佐治一成と(本書によれば入輿は無し)。通説ではこの結婚は、秀吉によって破談させられたことになっているが、著者によれば、これは誤伝であり、家康に嫁いだ朝日のそれとの混同されたものと断定している。著者は生前の信長による政略結婚であり、その際、三姉妹のなかから「江」が選ばれたのは「市」の意向だったと推定している。

   二度目の結婚は秀吉の甥、羽柴秀勝との間に成立した(実質的初婚)。ふたりの間には女子ひとりが生まれたが、秀勝自身は文禄の役の最中、発病し、急死した。享年二十四。そして三度目の結婚の相手が秀忠である。秀吉の養女としての、いわば政略結婚であった。

  「江」は秀忠の妻として、公儀ににおける表向きの母としての役割(将軍家御台所)を十二分に果たしつつ、表における自己主張を極力避け、夫に忠実につかえ、将軍家光の母、天皇女御和の母としてその生涯を終えた。頼るべき縁が薄かった江は、実子の婚姻や大奥において浅井人脈を重視し、徳川将軍家を支えながら浅井・豊臣の供養を一身に引き受けた。

  「江」という一人の女性をとおして、戦国期の女性の生き方を問い、正室の役割とは何かを明らかにしたのが、本書である。あまりにも少ない資料から、地道で正確な資料解読と推理を働かせて、真実に近づこうとする著者の姿勢に敬服した。誰もができる仕事ではない。


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