江戸工芸の世界に生きた女性、理乃が主人公。原羊遊斎、酒井抱一、鈴木基一おおなどの実在の人物の間に、理乃という架空の女性を登場させ、女性の眼をとして蒔絵職人の虚実、この世界に生きる喜びと苦しみを描いた作品です。
蒔絵師の家に育った理乃は西国(松江)から工芸職人を目指した兄(次男)の付添として江戸に上ってきましたが、その兄がほどなく急逝しました。彼女は故郷に帰ることなく神田にあった原羊遊斎の工房で働き、身をたてる道を選びます。
羊遊斎と内縁関係にあった胡蝶が仕切る寮(根岸)に身を寄せ、工房では祐吉、金次郎などの職人が働き、何かと声をかけてくれ、理乃は江戸での生活に慣れ、少しづつ蒔絵の技量も身につけていきました。
そうした日々が続くうちに、理乃は酒井抱一の下絵帖をもとに櫛をつくることを羊遊斎に依頼され、そこから理乃の苦悩が始まりました。数物を生産、販売しなければ工房の経営がなりたたないことは了解しながら、しかし他人が製作したものに名人の落款をおし、箱書して偽ることなどあってよいのでしょうか。工藝の創作(芸術家)と数物の製作(職人)との際はどこにあるのでしょうか。
それは鈴木基一にとっても同じであり、自らの製作した屏風に酒井抱一の署名と朱印とがあり、それで満足しているのでした。酒井家の家臣であった基一の立場はこうした代筆を常に余儀なくされたことでし。
本作品には過去の男とのわけありを背負いながら、基一に誘われることに懐かしさを覚え、祐吉に恋心を寄せ一夜をともにし、工芸の世界に身をおき、狭い世間を生きた女性の想いが生き生きと綴られています。理乃のこうした生き方を際立たせるのは、胡蝶、妙華尼、鶴夫人、きぬ女など男性を陰で支えた女性たちとの関わりの描写です。
江戸で女蒔絵師として成功する見通しがない理乃は、帰郷を決意しますが、基一との別れの場面で精魂こめて作製した棗(根岸紅)と硯箱(闇椿)を見せる場面は秀逸です。
朝日新聞朝刊に2009年2月26日から9月9日まで連載され、評判となりました。単行本化にあたり、巻頭には羊遊斎製作の櫛、香合、棗などの写真が色彩豊かに掲載され、眼を楽しませてくれます。
←原羊遊斎「狐嫁入り図蒔絵櫛」
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