【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

山田耕之介『経済学とはどんな学問であるか-経済学の現状と3つの文献について-』(私家版)1994年

2012-11-19 00:05:23 | 経済/経営

 ケインズによる「若き日の信条」「我が孫たちの経済的可能性」「アルフレッド・マーシャル」のテキストに依りながら、経済学がどのような学問なのか、しかして経済学の現状はどうなっているのか、経済学と数学との関係、ケインズの経済学、マーシャルの経済学は何をめざしていたか、について論じた本。

  いまある経済学が現実分析に無力であることを指摘し、社会主義体制の崩壊からただちにマルクス経済学の終焉をいう似非マルクス経済学者について批判的に検討する対極で、あるべき経済学の姿をケインズ、そしてマーシャルに見ている。著者は、経済学が無力なのは、それが自然科学を範とする「科学主義」に傾き、数量分析をもちあげて現実から遠ざかり、研究者は人間社会にそれほどの関心がなくとも「数理モデル」の開発に現をぬかしているからであると説く。

  ケインズもマーシャルも、そうではなかった。ケインズは倫理的に最高善と考える社会を実現するために経済的豊かさを追求し(ピグーがそうであったように)、経済学を倫理学の侍女とみなしていた。この思想は、その経済学の中身の核にあった「有機的統一の原理」(ヘーゲルの影響もあった)、「原子仮説」に活かされ、快楽の追求と効率の重視に重きをおくベンサム主義とは相いれるところがなかった(というよりベンサム主義を批判の対象とした)。

  マーシャルがケインズとともに目指していたのは、モラル・サイエンスとしての経済学、自然科学的思考を排して一定の価値判断に基づいた社会科学である。ケインズのこの考え方を理解するためのキーワードが、いわゆる「内部洞察力(経済学的直観)」である。

  著者は、このような議論を補強する意味をこめて、マーシャルを追悼した文章にそって、「経済学と倫理学」「経済学と経済学者」「経済学と数学」の3つのテーマを論じている。
マーシャルは若いころに聖職者を志し、そのための教育も受けた。また、もともとは自然科学の分野(数学、物理学)で仕事をした人である。そのような経歴で、マーシャルは経済学に接近し、大著「産業と商業」を成すのであるが、一貫していたのは経済学は絶えず変化する現実、そしてその担い手である人間集団をその対象とし、これゆえにこの学問はモラル・サイエンスでなければならず、数学との関係でいえば、これに依存してその演算結果をすべてに優先させることはモラル・サイエンスに備わっている精神性をはく奪することになる、とした。

  もっとも著者は、マーシャルがケンブリッジ大学に経済学部を創設したことが、当人の狙いからはずれて経済学がモラル・サイエンスから一気に遠ざかっていくきっかけになったのではないかと、見ている(p.54)。

  本書は著者が長く在職した大学のゼミナールのOB・OG会である「立山会」での最終講義にむけて書かれたものであり、長年の経済学研究のバックボーンであった根本思想を平易に語っている。上記のケインズの3つの文章の翻訳を資料とともに箱入りの品のいい作品に仕上がっている。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿