仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

入試に思う

2011-03-08 11:46:06 | 議論の豹韜
「住宅借入金等特別控除」の申請のため、いつもより余計面倒だった確定申告の作業をようやく終えた。これで執筆に専念できる…と思ったとたん、学会の査読論文やら校正やらが送られてきて、溜まっている原稿がなかなか片付かない情況となっている。このところは中年の身体に響くので幾らか睡眠をとっていたが、今日は久しぶりに完徹(しかし寒い!)。今年度も残りわずかなので、何とか頑張ってゆかねば。

ところで、京大入試におけるカンニング騒動の件。ようやくマスコミの報道も鎮静化してきたようだが、耳に入ってくる評論家のコメント等を整理してみると、「カンニング自体はしてはいけないことだが、京大は騒ぎすぎではないか。未然に不正を防げなかった大学側にも責任がある」との同情論が多いように思う。そのうえで、「単純に知識のみを問うのではなく、もっと考えるタイプの入試を実践すべきだ」と、入試における現行制度の批判、改革へと話を結びつけてゆく論説がうかがえる。まあ、確かに京大は軽々に動きすぎたかも知れない。恐らく、近年中国などでみうけられるような、組織的犯罪の可能性を疑ったのだろう。ところが、蓋を開けてみると実行犯は予備校生1人で、方法自体も直接的で幼稚なものだった(1問5分程度での左手打ちなど、同世代の若者なら誰でも可能という)。事実を知って、京大側も「しまった!」と思ったのではないだろうか。しかし、だからといって大学側の責任を問うのは本末転倒で(大学人だから弁護しているわけではない)、それは、「犯罪が起きるのは社会・行政の監視が行き届いていないからだ」と非難するのと何ら変わらない。不正を行わないのが最低限のルールなのだから、たとえ試験官が1人も監視していなくとも、それを破った方が悪いに決まっている。大学側を批判できるとしたら、やはり軽々に事態を公にし警察沙汰にしてしまった点だろうが、しかし公権力の力を借りなければ早期に違反者を特定できなかった可能性もあり、なかなか難しい問題である。

噴出した「入試改革」の意見も聞こえはいいが、外部からの浅薄な視線では分からないような困難が伴うはずだ。私立大学では、単純に知識を問う一般入試にも独自の論述問題を課すほか、推薦入試やAO入試などで趣向を凝らした設問を試みている。上智史学科のAO入試はプレゼンテーションが主で、予め発表したテーマに基づき受験者が調査・考察・資料作成を行い、当日試験官の前で発表して質問を受ける。受験者の学力が如実に表れるため、開始した時点では最良の方法にみえたが、近年は合否の判断に迷うことも少なくなくなった。調査や考察、資料作成の時点で高校教員や予備校講師が深く関わり、受験生の能力を大きく補完してしまうからである。小論文などはこの傾向が顕著で、前もって課題を発表しておくとほとんど同じような答案が並ぶことになり、読む方は辟易してしまう。高校や予備校とのいたちごっこだが、向こう側が想定しえないような質問を試みて、受験生の実力をあぶり出せるよう努めるしかない。
「知識ではなく考察を問うような問題を」との見解には同意するが、しかしその場合、採点には大変な労力を要する。数百人の考察を、短期間に同一の基準でどのように評価し、優劣を付けるのか。講義で教えた学生にレポートを提出させるのとは訳が違い、かなりのグレーゾーンを抱え込まねばならないだろう。それは受験生にとって、必ずしも有益ではないはずだ。また、「単純に知識を問う」という試験が、絶対に「悪い」というわけではない。今回の事件をきっかけに、「単純な事実は調べれば済むわけだから覚えなくてもいい。あらゆるものを持ち込み可能にして考えさせる問題を」との意見も出て来ているようだが、人間の記憶はHD等々の記録メディアとは違うので、その事実は多くの他の概念、言説と関連をもって保存されたり、一定の理解の結果として定着している。想起も単なる再生ではなく、新たな創造として行われるのであり、記憶・知識と思考とは切り離せないのだ。ゆえに、外部記憶装置に依拠した解答と、自分の記憶を駆使して構築した解答とは、質的に大きな相違を生じることになる(情報検索さえ本来的には考察なのだから)。『説文解字』を暗記した碩学の文字解釈と、漢和辞典を引き引き行う素人学者の文字解釈とは、やはり大きな隔たりがあるのである。大学生における単純な知識の欠如が問題化し、リメディアル教育や初年次教育の必要性が叫ばれている現状においては、その知識を問うことこそが重要なのだともいえる。ただし、その設問のあり方には工夫が必要だろう。
人文系科目の場合、試験の問題を作成する際には、できるだけ受験する者の頭をフルに回転させられるような問題構成を考えたい。頭のなかにある教科書や参考書の記述と対照させれば、すぐに解答が出せるような問題にはしたくない。しかし、センター入試も含めた現在の大学入試の大勢は、「できるだけ受験生の頭を悩ませない」簡易な問題を大量に出すという方向に向かっている。それは、ある意味で出題ミスとそれへの対応を怖れた結果で、学生の質を下げるばかりだという気がしてならない。いつかは、異なる方向へ大きく舵を切らねばならないだろう。
理想は、アドミッション・ポリシー、カリキュラム・ポリシー、ディプロマ・ポリシーに有機的に関連した受験制度だが、高校教育自体の改革も不可欠だろうから容易ではない。課題は山積している。

さて、写真は久しぶりに出た古代史の小説で、藤原時平と菅原道真の関わりを、王朝国家成立の政治的・社会的胎動のなかで捉えている。作者の奥山景布子さんは『とはずがたり』の研究で学位を取った文学者で、さすが、「史料」や研究文献をしっかり読み込み消化して物語を構築しているようだ。数ページ読み進めて「おや」と思い、巻末の参考文献リストを開くと、案の定筆頭に「平田耿二著『消された政治家菅原道真』」が掲げられていた。確かにこの本は、道真と時平の相克のドラマを構想するうえでは非常に魅力的だろう。しばし、恩師の顔を想い出した。
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