仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

語ることへの罪悪感

2011-11-25 00:25:27 | 生きる犬韜
今回の日文協のシンポジウムは、ぼくの立場からすると大失敗であった。いうまでもなく、他の報告者との議論が、しっかりできなかったからである。シンポ終了後の懇親会ではたくさんの人から労いを受けたが、その後、ぼくの研究をずっと読んでくれている人やふだんの様子をよく知る人からは、「君の立場からすると納得できない議論が多かったのに、なぜ批判をしなかったのか。反論しなかったのか」とか、「会場からのリアクションにも、いつものようにきちんと応じていなかったのはなぜか」との質問を多く受けた。ぼく自身も、いまだによく分からない部分が多い。シンポジウムの席で批判にさらされることは、これまでにも多々あった。しかし、全般的に言葉が出て来なくなるという経験をしたのは、今回が初めてである。外からの語りかけがまったく心に響かず、失礼な話、それに対して応答したいという衝動がほとんど生じてこなかったのだ(会場にいた院生は、「先生、どんどん不機嫌になっていましたよね」といっていた。彼にはそうみえたらしい)。明らかに様子が変だと、体調を心配してくださった方もいた。まあ、2週間以上も休みのないまま報告に至ったのは確かだし(あと2週間以上その状態が続く)、万全の健康状態とはいえなかったが、徹夜明けで臨んだ他のシンポでもこうしたことはなかった。
やはり、今回の震災について直接的に語るということは、ぼくのなかで異常な負荷を発揮するようになっているらしい。野蒜に立ったときの思考停止の状態は、未だにどこかで続いている。今回、東北における自分の経験については言及せず、転換論・画期論批判に終始したのもそこに一因があるのだ。シンポ終了直後は、当事者性に基づくひけめなのかとも思ったが、そうではない。以前にも書いたとおり、語ることそれ自体に対して強烈な罪悪感(それを、文献学者のひけめというなら、否定しないけれども)が存在することを、あらためて痛感・自覚した。
それが克服すべき障害なのか、それとも大切にすべき感性なのかは、もうしばらく考えてみたいと思う。
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学生にお守りをされました

2011-11-12 19:47:48 | 生きる犬韜
今日12日(土)は、学生センター長を代行して、合気道部の創部50周年祝賀会に出席。しかし、いつも感じることなのだが、ぼくはこういう席では本当に身の置き所がなくなる。まあ、コミュニケーションが苦手なのだろう。お偉いさんに挨拶回りするのも主義じゃない(役職者としては必要なのだろうが)。必然的に、隅っこのほうに手持ちぶさたで佇んでいることになるが、今日は現役部員の教え子たちが気を遣ってお守りをしてくれた。申し訳ない限りである。間が持たないので、飲めないワインもちょっと飲んでしまった…。
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秋学期開始前に

2011-09-30 12:18:37 | 生きる犬韜
今日9月30日(金)から、勤務校でも秋学期の開始となる。「え~、夏休み長いんですね」という声が聞こえてきそうだが、少なくともぼくは、ほとんど休みを取れなかった。とくに9月は、通常と同じくらいの頻度で出勤し校務をこなしていたのである。いきおい、研究上の生産性は極めて悪かった。こんなに勉強をしなかった夏は、これまでなかったというくらいだ。しかし、関係の皆さんのおかげで、東北学院大学博物館の文化財レスキューへの協力も滞りなく継続し、上智大学史学会大会シンポの設計図も描き、文学部初年次研修プログラムも無事開催し、来年度輪講科目「災害と歴史学」のカリキュラムも確定できたので、事務仕事のうえではがんばったといえるのではないだろうか。ただ、これから12月初旬まで死のシンポジウム・ロードが続くことになるので、8月・9月〆切の原稿が仕上がらなかったのは極めて痛い。ま、できることしかできないので、ボチボチやってゆくしかあるまいが…。ちなみに夏休みは、ゼミ旅行と学会の合宿以外、旅行はもちろん、映画にも何にもゆけなかった。はぁ…。

さていつもどおり、先~今週の出来事を備忘録的に綴っておこう。
先週からは、校務が通常どおりに動き出したので、学生センターの仕事の傍ら、26日(月)に控えた初年次教育プログラムの下準備を進めた。新宿区歴史博物館へ資料集めに行ったり、訪問予定のお寺へ寺宝の閲覧をお願いに伺ったり。とくに嬉しい出会いがあったのは、走井の遺構を校内に持つ四ッ谷中学校へ、その見学を許可していただきにあがったときのこと。校長のY先生自らご歓待をいただき、いろいろお話をして、中・大連携へ向けて協働してゆく運びとなったのである。Y先生はもともと言語学がご専門で、後に国語学、国語教育へ転じられたという。お茶をいただきながら大好きなソシュールの話題なども飛び出し、「教員志望の学生さんがいたら、ぜひ現場を体験してもらいたい。そのための受け皿にもなります」など、ありがたいご提案も頂戴した。さらに幸運なことに、同中学校では、麹町大通りの拡張工事で出土した玉川上水の木樋を保管しており、昇降口付近で展示していたのである! 清水谷公園で水揚げのための石升はみられるのだが、それに繋がっていた木樋・木管も何とか学生にみせたいと思っていたので、まさに僥倖というべき出来事だった。
また、さらに学生のためになるような珍しいところはないか探しているうち、母の実家近くの千日谷一行院で、なんと暦応2年(1339)の板碑が出土していることを初めて知った。中世の"江戸"をうかがい知ることのできる、大変に貴重な文化財である。千日谷は、例の鮫ヶ橋谷の一方の端に当たっており、他界との境界と認識された場所として相応しい。早速一行院へ伺ってみたところ、当日はお盆の最終日に当たるため確約はできないが、おみせできるよう考慮はしたいとのお言葉をいただいた。
台風の雨が酷くなり始めた頃研究室へ戻ってくると、校内には緊急放送が流れ、学生・教職員は原則退去との指示が出ていた。学生生活委員会も中止かと学生センターへ問い合わせると、緊急に承認の必要な事項が山積しているので敢行するとのこと。大丈夫かなと不安になったが、案の定、会議終了の時間帯には、四ッ谷を通るすべての電車がストップしてしまっていた。これは校内に泊まり込みになるかと覚悟を決めたが、何のことはない、帰宅定時の10:00頃には中央線もだんだんと動き始めており、滞りなく武蔵境へたどり着くことができたのだった。
しかし、安心したのも束の間、問題はなんと家のなかで起きていた。ぼくの書斎兼書庫は地下にあるのだが、1階のリビングとは吹き抜けで繋がっており、その部分の屋根はサンルーフのような構造になっている。以前もそこで雨漏りがあり大騒動になったのだが、今回は未曾有の雨漏りが発生し、折良く(悪しく?)家にいたモモが奮闘、何とかサンルーフ直下のMacや本・書類などを救出してくれたらしい。大感謝であるが、これから雨の恐怖に怯えて暮らさねばならないかと思うと大層萎える。すみやかに業者に連絡して修理をせねば…(しかし未だに対応できていなかったりする)。

22日(木)は台風一過の秋晴れとなり、鎌倉の豊田地区センターで生涯学習の講義。23日(金)~25日(日)は事務仕事に明け暮れ、26日(月)文学部初年次プログラムの本番となった。服部隆先生による懇切丁寧な「レポート作成」レクチャーの後、国文・史学の1年生は4班に分かれ、それぞれ街へと繰り出した。ぼくの班の後方支援は、井上茂子先生と三田村雅子先生。30名弱の学生を引き連れて、江戸の坂を上ったり降ったり。2時間強歩きづめに歩いたため、なかにはハイヒールを履いてきた女子もいて、解散地の信濃町駅に到着した頃には、みんな疲れてぐったりしているありさまだった。しかし、ちゃんと根回ししたのが功を奏して、西念寺でもご本堂で半蔵の槍を拝見できたし、一行院では貴重な板碑をベタベタ触らせてもいただけた。学生も、それなりに満足はしてくれたようである。しかし、運動靴を履いてきなさい、等々の指示はあらかじめ出しておくべきだったかな。
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東北ゼミ旅行(3):東北学院大学博物館文化財レスキュー活動参加

2011-09-19 19:19:50 | 生きる犬韜
ちょっと間が空いてしまったが、ゼミ旅行の続き、最終日9月3日(土)の行程を書いておこう。

やはり3時まで続いた飲み会のため、ほとんど寝られていないゼミ生もいただろうが、この日は9:30厳守で仙台の東北学院へ到着しておく必要があったので、早朝6:30にホテルのロビーへ集合となった。ぼくも、ほとんど徹夜で6:00過ぎにロビーへ降りたが、やはり未だゼミ生は1人も出てきていない。大丈夫かなとちょっと心配になったが、若いとは大したもので、6:30前にはきちんとほとんど全員が顔を揃えた。駅まで走り、なんとかギリギリで東北本線に乗り込んで、一路仙台へ出発。車中ではほとんどのゼミ生が爆睡していたが、ぼくはMacBookAirで原稿執筆。ときおり車窓を流れる緑の水田をみながら、「やっぱりきれいにみえちゃうなー」と呟いたりしていた。
ところで先にも書いたが、この日は台風12号が四国から紀伊半島に迫りつつあり、関西の天候は大荒れ、関東や東北でも悪天候が予想された。前日には、東北学院の加藤さんから、「明日はどうあっても雨なので、屋外でのクリーニング作業は中止し、館内での資料整理を手伝っていただきます」とのメールが届いていた。学院博物館の方では、このところ文化財から発生するカビとの戦いが続いており、木製民具については、水洗いもできるだけしない方がいいだろうという情況の変化が生じていた。せっかく楽しみにしていたゼミ生たちには可哀想だが、文化財は少しの雨にも濡らしたくないところだろう。しかし、それまでのところ何とか天候は保っていたので、もしかしたら…と一縷の希望を抱きつつ博物館に入った。現地では、やはり上智からボランティアとして参加した法律学科のOさん、東北学院の男子学生2人とも合流した。

当日はちょうど学芸員課程の研修が入っており、上智の後輩の河西君や中世史の七海雅人氏の姿もあって、幸運なことに、彼らに近代史や中世史の展示史料を直接解説していただくことができた。そのあとは、加藤さんに文化財レスキューの意義や経緯について説明していただき、収蔵庫のなかも見学させていただいて、まずは館内作業として資料整理のお手伝いをした。文化財クリーニングの過程で撮影した写真と、それぞれの文化財のカルテを貼り合わせる、いわば作業台帳の作成である。みんな真面目に、黙々と作業をしてくれた。いやー、うちの学生たちは、こういうときには本当に誠実だと思う。必要なこと以外ほとんど言葉を発さず、てきぱきと仕事を片付けてくれた。感謝感謝。
館内作業を終えたところで、何とか天候も保ちそうにみえたため、加藤さんの判断で、文化財クリーニングを開始することとなった。気を遣っていただいたかと申し訳なく思いつつ、一方では、ゼミ生たちに貴重な経験を積ませることができるとホッとした。しかしどうにも間が悪いというか、それぞれが1つめの洗浄を終えたあたりで突然の降雨。何とか作業に一区切りはついたが、急いで撤収作業を行い館内に駆け込んだ。洗浄の済んだ文化財を保管庫へ運んでいったメンバーを待って、みんなで一休みのお茶会を開いた。学院博物館には、ほとんど協力という名に値するような仕事はできずご迷惑をおかけしたが、学生たちにはそれなりに充実感を味わってもらえたようで何よりだった。

16:00前、台風も接近してきていたので、ゼミ生たちには注意を与えて早めに現地解散とした(数回前のエントリーでも述べたが、うち何人かとは、その後野蒜へ入ることとなった)。以上で、2011年度のゼミ旅行は全行程終了となったが、今回は夜中の勉強会など、ゼミ生の頑張りが目立ったよい旅行になったと思う。院生たちも大いに指導力を発揮してくれた。反面、彼らの健康管理にきちんと目を配れなかった、ぼく自身の不甲斐なさも際立った。やはりぼくは、あまり指導的な立場で仕事をすべき人間ではないのかな、と今さらながら痛感した次第である。
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facebook はなかなかよい

2011-09-19 00:34:07 | 生きる犬韜
今週はとにかく、校務に始まり校務で暮れた。13日(月)はAO入試の書類審査、14日(火)は大学院入試と学科会議、15日(木)・16日(金)は文化財レスキューの説明会、17日(土)はAO入試の面接、18日(日)はAO入試・海外就学者入試の学科試問・合否判定会議。16日には儀礼研究会(大妻女子大にて服藤早苗さんのご報告)、17日には上智史学会大会シンポの企画会議もあった(戸川さん、安孫子さん、藤本さん、ありがとうございました)。この間、11月日文協大会シンポの報告要旨も作成し、上智史学会大会シンポの開催趣旨や進行メモを書き終え、幾つかの原稿にも拍車をかけているが、夏の疲れが溜まっているのかなかなか夜更かしができない。10:30頃に帰宅して遅い夕食を摂ると、だんだんやる気がなくなってきてしまうのだ。やはり歳だな。

さて、そんながんばりのきかない生活を送るなか、モモの勧めで、いままでちょっと敬遠していたfacebookを始めてしまった(遅ればせながら…)。困ったことに、これがけっこう面白い。分野の異なる友人の情報が次々に入ってきて勉強になるし、こちらの未だ熟しきらないつぶやきにも貴重な意見をもらえる。ブログはやはりオフィシャルな性格が強いメディアなので、双方向性をより重視した内容などはfbにアップしてゆくことになりそうだ。以前、学生センターの内部掲示板に、「デジタルハリウッドがfacebookを利用した補習・復習システムを導入した」との記事が載せられていたが、確かにブログより使い勝手がよい。現在、うちのゼミではブログを補習・復習用に活用しているのだが、facebookの可能性を検討してみる価値はありそうだ。ま、あらゆる講義に援用するとなると、こちらの時間がまったくなくなってしまうことは目にみえているが…。

さあ、授業開始はまだちょっと先だが、事務方は明日から秋学期の開始となる。会議・委員会も通常どおりに動き出し、各種イベントも頭を擡げてくる。とりあえず今週は、26日(月)開催の文学部初年次研修における「町歩き」のコース確定(今年のテーマは、「災害と江戸・東京」)に、全力を傾注しよう。
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東北ゼミ旅行(2):花巻・平泉疾走

2011-09-11 09:07:51 | 生きる犬韜
9日(金)からモモが秋田へ帰っており、独り暮らしの日々である。公務上でも、学生センター長がカンボジアへ出張中なので代行業務があり、学部長会議へ出席して文化財ボランティアの現状報告をしたり、書類に決裁の印を捺しまくったりと忙しない。10日(土)には、退院したばかりの父に代わって法事を行うため、日帰りで自坊に帰宅。しばらく「説教」なるものを作っていなかったので、時間がかかった割には浅い内容の法話となってしまって大いに反省(ごめんなさい)。あとは終日、小学生の姪たちの相手をしてカロリーを消費し(トランプから始まり、将棋や相撲を経て異種格闘戦に発展した)、世のなかのお父さんは大変だ、と痛感した。
そうそう、8日(木)のTBS「ひるおび!」で、2ヶ月間延期を繰り返していた文化財レスキューのリポートが、ようやく放送された。ところが、東北学院大学博物館の活動もかなり取材されたはずなのに、完パケの編集では、鮎川地区の文化財が「仙台の大学に大切に保管されている」との語りがあっただけで、大学名さえ表示されない始末。もちろん、取材した内容を使うか使わないかはテレビ局の自由だが、やはり何か割り切れないものが残る。レスキュー活動を周知するという意味では一定の効果が期待できるだろうが、博物館の皆さんの落胆ぶりを考えると恨み言をいいたくもなるのである。

さて、ゼミ旅行の続きを書いておこう。今回は昨年度とは違い「夜の企画」はなかったが、O君の案内で「賢治が愛した蕎麦」(ホントかよ)に舌鼓を打ち、闇に耀く「銀河鉄道壁画」もみた。天気がよければ夜のイギリス海岸まで足を伸ばしたかったが、北上川の増水の恐れもあるので断念。前回も少し書いた勉強会と飲み会のみ行ったが(阿鼻叫喚の詳細はここでは触れない)、ほとんど眠らずに朝を迎えた学生もあったらしい。案の定、体調を崩したものもいて、翌日の日程はすべて全員で消化というわけにはゆかなかった(私の不徳の致すところです)。

翌2日(金)は、まず午前に宮澤賢治記念館を見学。4年ぶりだが、遠野市立博物館と違ってまったく変わっていなかった。ちょうど、賢治と遠野との関係に触れた特別展を行っていたが、いつもながら内容は「家族向け」で、もう少し専門的な追究をしてもよいのではないかなと感じた。数年前に遠野の博物館で開催していたものの、ピックアップ・焼き直しにすぎない印象である。しかし、個人作家の記念館としてはやはりものすごい集客力で、この日も社会科見学の小学生たちでごった返していた。賢治強し。学部3~4年生の頃、毎日校本全集の賢治の詩を一編読んで、自分なりに解釈しノートを取っていたことを想い出した。自分の研究者としての原点には、確実に賢治がいる。歴史研究に埋没しているとそのことを忘れがちになるが、折に触れて立ち帰らねばならない大事な場所である。
なお、学生たちのお気に入りは圧倒的に「銀河鉄道の夜」で、もちろんぼくもそうなのだが(ほかに「猫の事務所」「フランドン農学校の豚」など)、冥界訪問譚としてのこの物語を、時代的文脈のなかで「怪談」として読み直すと、また面白い何かがみえてくるかも知れないとふと考えた。

午後からは平泉に移動し、歩いて毛越寺・中尊寺周辺を散策。天気は小康状態で、やや晴れ間もみえ気持ちがいい。世界遺産に登録された浄土庭園を、かつての威容を想像しつつ経巡り、ソフトクリームで一休みしてから平泉へ(ずんだ味はなかなかよかった!)。このとき初めて聞かされたのだが、学生が知人を頼って、中尊寺の師僧さんに寺内解説をお願いしているのだという。約束の時間まで30分の間に移動しなければいけないということで、ペースメーカーよろしく先頭を切って歩き出した。自慢ではないが、ぼくは歩くのが速い。持久力もそれなりにある。先頭にいると学生を置いていってしまうため適役ではないのだが、今回は院生も2名付いているので安心してアクセルをかけた。涼しかったおかげもあり、学生もなんとか付いてきて、約束から数分の遅れで師僧さんにお会いすることができた。あとはそのご案内で、宝物殿・金色堂を堪能(ありがとうございました)。ようやく悪化しだした天候の下、高館や無量光院を経て電車で移動、一関での宿泊となった。
これも、夜の勉強会でOさんからの質問を受けて気付いたのだが、どうも平泉には、京都の西方浄土信仰に対するカウンターカルチャーとして、東方薬師瑠璃光浄土を志向するベクトルがあったようだ(常識?)。もともと東北仏教には薬師信仰が強く、勝常寺や黒石寺などにも平安期の名仏が残っている。それらを基盤としながら、現世成仏の王道楽土へ再構成を図っていたものかも知れない。浄土への入り口である雄島が、西方ではなく東方へ設定されているのも、その関係で説明することができるだろう。やはり勉強は必要である。

夕飯は、S君が探してくれた郷土料理ふじせいで、名物の餅御膳を堪能。これは、本当にきれいで美味しい料理だった。旅行に来たら、コンビニでばかりカロリーを補給するのではなく、やはり郷土のものを食べなければならない(みかけによらず大食漢のSさんは、昨夜の食事でも天ぷら蕎麦とそばむすを平らげていたが、また何か盛り沢山のお皿を並べていたようだ。女子は強い)。部屋に戻ってからの飲み会は、翌朝の集合が6:30だというのに、やはり3:00頃まで続いていた(沈没する上級生の男子を尻目に、ここでも体育会系女子の「健闘」が目立つ)。学生のいろいろな話が聞けてよかったが、持っていった仕事はまったく捗らなかったのであった…。
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東北ゼミ旅行(1):遠野にて

2011-09-07 00:08:43 | 生きる犬韜
今年は、恒例のゼミ旅行も東北に設定した。9月1~3日の3日間で遠野・花巻・平泉を回り、最終日は東北学院で文化財レスキューのお手伝いをさせていただく予定となっている。しかし、台風12号がゆっくりしたスピードで北上してきており、恐らくは、降雨ではできない被災文化財のクリーニング作業は中止、直撃さえ避けられればよいが…と不安な気持ちでの出発となった。

東北では、在来線で移動しようとすると、どうしてもその本数の少なさがネックとなる。なるべく多くの場所を回ろうと思ったら、早め早めに行動するに越したことはない。初日も、7時過ぎには新幹線で東京を発ち、10時過ぎには新花巻に到着。釜石線が来るまで少し時間を潰してから、弁当で昼食を摂りつつ遠野まで移動した。まずはと、遠野駅から市立博物館へ歩き出したところ、それまで何とか保っていた天気が突如崩れだし、それなりに強い雨が降ってきた。「先が思いやられるな」と溜息をつきながら中央通りを直進してゆくと、途中の街並みは何となく元気がない。夏休みが終わったためなのかと思っていたが、市役所が倒壊したことに象徴されるように、遠野も当然のごとく震災の被害を受けているのだ。別に「物語」を作る気はないが、もしかすると未だその影響はあるのかも知れない。
博物館では、学芸員の前川さおりさんに大変お世話になった。想像していたよりパワフルな人で、盛り沢山の常設展示をリズミカルに説明してくださった。昨年リニューアルされた館内は、2007年にやはりゼミ旅行で訪れたときとはまったく違っていて、タッチパネル等々最新の機器が駆使されなかなかに興味深かった。冒頭、真っ白な遠野の地形模型に『遠野物語』の伝承地が映し出されるフロアは、地理・考古・歴史・民俗の総合を難なくなしとげる力業で、非常に感心した。物語・情報の伝播をドラマ仕立てで解説するパネルも、『伴大納言絵巻』の噂が広がるシーンを髣髴とさせるようで分かりやすく、四方の流通が結節する遠野の地域的特性があらためてよく理解できた。しかし、前川さんの語りにとくに力が籠もったのは、やはり文化財レスキューに関する特別展示であろう。共同作業の多かった陸前高田の博物館では、すべての学芸員が津波のために亡くなった。震災そのものへの対応でなかなか文化財行政に復帰できなかった前川さんは、それでもたった1人でレスキュー作業を開始し、古文書を中心とする被災文化財の救出・洗浄に奔走したという。これまでも同様のフロア解説は何度かされているのだろうが、それでも時折言葉を詰まらせる前川さんのお気持ちは、察して余りある。学生たちは、その思いを汲み取ってくれたろうか。
続いて、博物館から少し離れた収蔵庫に移動、エア・ストリーム法を用いた被災文書の洗浄・乾燥作業をみせていただいた。エア・ストリームといっても、ここでは高価な器財などは一切使われていない。東北学院博物館と同じくありあわせの日用品を駆使した、まさにブリコラージュの作業が展開しているのである。エタノールを塗布し固定した文書を水洗した後で、新聞紙やキッチンペーパーに刳るんで束にしたものを専用の乾燥装置(ラックにサーキュラーを取り付けたもの)にかけ、空気を安定的に送り込んで急速に乾燥させる。布団乾燥の方法を援用したスクウェルチ・パッキング法からさらに発展させた方式で、手順や装置は、東京文書救援隊がWeb公開している方法に近い。…と思ったら、東文救自体が遠野へ導入したシステムだったらしい。不勉強なぼくらの知らないところで、さまざまなネットワークが築かれ協働が展開されているのだ。

前川さんには、陣中見舞いということで、地元武蔵野のお菓子と三鷹のキウイワイン(ジブリのラベルが付いているもの)を差し上げてきた。ワインはもう季節的に品切れの時期で、自宅周辺の酒屋を虱潰しにして見つけてきたものだ。ちょっと甘いようだが、お口にあったろうか。

さて、前川さんにお礼をいい、一行は伝承園、常堅寺、カッパ淵の散策へ。カッパ淵へゆく途中では、学生たちと、「カッパは何類なのか」という話題に花が咲いた。図像学的には爬虫類もしくは両生類だが、伝承学的には猿と同じものである。しかしそうしたステレオタイプな位置づけは、民俗の地域的固有性、多様性を無視した見方ともいえる。最近、首長竜が胎生だったというニュースが流れて注目されたが、「恐竜」という枠組みのなかで構築され、ぼくらが思い描いているイメージと、実際の恐竜とはまったく別物なのかもしれない。例えば、鳥に進化していったという二足歩行の肉食恐竜の類と、爬虫類や哺乳類への流れのなかにある四足歩行の草食恐竜、そして今回の海の首長竜とは、系統的にまったく別の生物であった可能性もある。遠野のカッパは赤いというが(キジムナー?)、あまり我々の持つ固定的なイメージで考えない方がいいかも知れない…などといった議論になった。
ところで、ちょっと気になったのは、カッパ淵の脇にある稲荷社の傍らに、奪衣婆らしき像の入った祠が立っていたことだ。『遠野物語』くらいしか予備知識のないぼくは、なぜここに奪衣婆?と首を傾げたが、花巻のホテルへ移動、夕食後に行われた勉強会(今年はちゃんとできていた!みんないい子だ!感激である)で、その疑問は氷解した。常堅寺を担当したYさんの報告によれば、カッパ淵のカッパを狛犬にしたという同寺には、十王信仰があるというのだ。とすると、あの小川は三途の川で、カッパ淵は他界への入り口ということか。このあたりの習合が、歴史的にどのように進んできたのかは知らないが、同淵のカッパが乳の神として祀られているというのも、賽の河原等々のイメージと関連があるのかも分からない。

さてさて、花巻のホテルでの勉強会=飲み会は、10時半頃から3時近くにまで及んだ。まさに、よく学び、よく飲みという言葉が相応しい「修羅場」であったが、該当人物はそろそろ自分の限界を見極めるように。身体を悪くしますよ。(つづく)
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「研究」開始

2011-08-17 09:38:43 | 生きる犬韜
15日(月)夜に自坊から帰った。今年は、12日に盂蘭盆会法要に参加したほか、14・15日の2日間で16件のスケット。大した力にはなっていないが、しかし久しぶりに1日10件近くお経をあげて歩き、さすがに疲労した(喉はガラガラで、いまぼくは重低音の魅力である)。ただ、数年ぶりにお会いする檀家さんもあって、お話ができてよかったと思う。

三鷹に帰って本格的に研究を開始。あいまあいまに事務仕事もしなければならないのだが、ずっと斜め読み状態だった許兆昌『先秦史官的制度与文化』を、ノートをとりながらじっくり読んでいる。「史」字の成り立ち、シャーマニズムにおける史の起源から説き始めていて、吾が意を得たりと感じる記述も少なくない。日本古代史においては、歴史叙述に関する研究は国史編纂へ限定されるため、東アジア的規模で史官の起源を論じたもの(とくにシャーマニズムに配慮したものなど)は見当たらない。かつて折口信夫が、国文学の発生についてその口火を切ったにもかかわらず、である(それゆえに古代文学には、シャーマニズムと歴史叙述との関係を問う議論がみられるが…)。春学期の特講でもこの問題を扱ったが、受講者には「マイナーにもほどがある」との印象を与えたようだ。しかし、これが歴史学の根源、根幹に関わる、本来王道中の王道であるべきテーマであることは言を俟たない(逆にいうと、「マイナー」「コア」との印象を持ったひとは、それだけ歴史学について勉強不足だということになる…などと自己正当化してみたが、ぼく自身が言い訳がましく同じ言葉を繰り返していたのだった)。しっかり読み込んで、単行本に活かしていかなければならないが、あとは時間との戦いである。それにしてもこの本で、エンゲルスを「恩格斯」、レヴィ=ブリュールを「列維布留尓」と中文表記することを初めて知った。

東北学院への上智大生ボランティア派遣の件は、まず日程の迫っている8月分のみ、史学科の学部生・院生を対象にアナウンスした。急だったので希望者はいないかも知れないと危惧していたのだが、すでに数人の応募がありホッとしている。ほとんどが1年生のうえに、全員が女子という顔ぶれに、何か時代のようなものを感じてしまう。がんばってきてもらいたい。9月に、やはり文化財レスキューボランティアを兼ねて行うゼミの東北研修旅行では、遠野市立博物館のご厚意で、文書の2次洗浄などの様子を見学させていただけそうである。ぼく自身も楽しみになってきた。
毎日暑くてやる気を削ぐが、何とか精進してゆきたいものだ。
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いよいよ「夏休み」

2011-08-13 03:06:59 | 生きる犬韜
9日(火)夜、前期成績のオンライン書き込み終了直前に、何とかすべての採点をし終わった。今年も、100通以上のレポートを読むのは一苦労だったが、コピペは論外として、やはりレポートの体裁をなしていないものが圧倒的に多いのには危機感を感じた。史学科生にもかかわらず、「史料」と「資料」の区別がつかない者もいる(エピステモロジー的には、もちろん議論の対象としうるが)。1年生はともかく、未だに読書感想文しか書けない2年生、3年生もいる。今まで何を勉強してきたのかと、首を傾げざるをえない。しかし、なかには恐るべき技量の持ち主もおり、1年生で、最近の卒論に匹敵するような文章を書いてきた学生もあった。どのゼミに進むつもりかは知らないが、とにかく成長が楽しみである。

10日(水)は、お盆休み前の最後の業務日。採点作業のために溜まっていた書類等々を片付け、夕方には学生センターで「文化財レスキューボランティア」関連の会議。前の記事でも紹介したとおり、東北学院大学博物館のレスキュー活動に対する支援態勢を整えているところだが、センターの皆さんのご配慮で、大学公認の行事とすることを認めていただき、ぼくからすると「破格」の資金援助が受けられることになった。詳細は今後各方面に周知してゆくが、これで、上智大生が現地へ赴き活動するための交通費実費、宿泊費実費を、かなりの上限額で賄えるようになる(仙台へ赴いて作業に従事するのに、食費以外はほとんど自己負担しなくてよいくらいである)。このお盆休みの間に早急に下準備をし、募集の仕組みを作成しておかねばならない。

11~12日(木・金)は、上記の作業と、ゼミ・プレゼミのフォロー。間に自坊のお盆の法要に日帰りで参加したので、結構な時間を費やしてしまった。合間に、兵藤裕己さんから、11月の日文協シンポの開催趣旨(テーマは「文学のリアリティ」)が届き、併せて報告要旨の提出を促された。タイトルが8月20日、要旨は9月15日だそうだが、やはりなかなか難しい問題である。ナラティヴの機能とリアリティとの関係を、災害経験を通じて考えてゆく以外にはあるまいが…まだうまくまとめられそうにない。明日からはしばらく自坊に戻り、月参りの手伝いをすることになっているのだが、夜は概ねフリーなので、単行本の執筆を進めつつ考えてゆこう。
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東北へ/東北から

2011-07-30 21:37:35 | 生きる犬韜
授業は終わっても、さまざま仕事は続く。11月5日のアジア民族文化学会シンポも動き出した。この時期は、11月13日にシンポのコーディネーターを務める上智史学会大会、20日にパネリストを務める日本文学協会大会シンポ、12月3日にコメンテーターを務める神道宗教学会大会と、出ずっぱりである。8~9月は、とにかく「充実」した月になりそうだ。

さて、27日(水)は、かねてからの約束どおり、歴史学科連続講演会「災害を乗り越えてきた人々」にてお話をさせていただくべく、環境/文化研究会(仮)の同志 加藤幸治さんの待つ東北学院大学へ向かった。講演のタイトルは「水への想い、原郷への想い―東アジアの水災をめぐる環境文化史―」だが、いつものように資料が出来たのが前日の夕方という為体で、それから全体の内容を整理してストーリーラインを作ってゆき、新幹線のなかや、早めについた仙台のホテルでもその作業を続けた。終了したのは昼過ぎ、会場へ移動しなければならないギリギリの時間だった。講演の準備にこれほど時間がかかったのには、言い訳めくが幾つかの理由がある。まずは、授業が終了したといっても準備に使える時間が少なく、かなり以前から資料を集め始めてはいたものの、実質的なレジュメ作成には2週間弱しかかけられなかったことがある。しかし、にもかかわらず構想が膨れあがってしまい、話自体はどんどん壮大になってゆくのだが、いつまでたっても落としどころがみえてこない。ようやく完成したレジュメはA4で25枚に及び(しかも8割は新ネタ)、結局1学期分の講義が行えるような分量に達したが、東京の人間がいまの東北へ行って災害の話をする、そのことに対する迷いや不安は講演が始まっても消えなかった。聴衆のなかにいた院生のO君が、「先生、珍しく緊張してましたね」と声をかけてくれたが、そうした自覚はなかったものの、どのように言葉を紡ぎ出すか躊躇し続けていたのは確かで、表現に迷いながら言い直したり言い換えたりを繰り返していたので、それが緊張しているようにみえたのかもしれない。
ぼくに与えられた時間は1時間半~2時間、25ページをまんべんなく話しきるのはどだい無理な話で(いやしかし、よく考えたら、去年の御柱シンポでも20ページの内容をちゃんと1時間で処理したんだ。やはり今回のプレゼンの出来は悪かったということか…)、適宜省略しながらあらすじを追ってゆく形となった。四ツ谷鮫ヶ橋せきとめ神をめぐる考察を導入に、日本社会の流動性(定住社会批判)、古代中国の水に対する心性とそのアジアへの広がり、洪水伝説と日本神話との関係…と順次話を進め、最後は災害伝承にみえる心性・感性の重要性について触れて結びを付けた。聴衆の方々には何かしら「考える材料」は持って行っていただけたようであるが、メインストーリーの重要ポイントを幾つか素通りせざるをえず、結果として全体像が分かりにくくなってしまったというのが正直なところである。もはや資料も冷静にはみられない。しかし、聴衆の方々何人かが質問に来てくださったこと、久しぶりに会った上智の後輩、東北学院勤務の河西晃祐君が的確で深い感想・意見を多岐にわたって展開してくれたこと、そして加藤さんがやはり深い感想を寄せてくださったことには励まされた(でも、加藤さんのいつもの舌鋒の鋭さからすると、ちょっと奥歯にものが挟まっていたような…)。加藤さんにはぼくの方法論について、「北條ドリル」という命名までしていただいた(ふだん女性的もしくは中性的にみられることが多いので、こんなマッチョなラベルをいただいたのは初めてである)。禹王や洪水伝説のアジア的展開については、自分のなかで幾つか新しい発見もできた。漢民族の口頭伝承、少数民族の民間伝承は、明らかに「種民」を残すもので、六朝期の道教的言説に淵源するものだろう。これは、11月のアジア民族文化学会、日本文学協会のシンポジウムの報告ヘも活かさねばなるまい。
講演終了後の懇親会では、東北学院歴史学科の教員の皆さん、院生の皆さんからあたたかいお言葉をいただいた。とくに、院生の皆さんの研究に対するモチベーションの高さ、社会人としての成熟度には感心させられた。ぼくと一緒に来た上智の院生I君、O君、Fさんも大きな刺激を得たようだった。

翌日は、東北学院大学博物館の主宰する文化財レスキュー活動に参加したが、これについてはまたあらためて書くことにしよう。
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熱中症になりかかる

2011-07-18 19:54:01 | 生きる犬韜
ここまで、「研究室では冷房をかけまい!」と頑張ってきたが、限界が近付いているようだ。世間では休日の今日も、通常どおり9:00から会議で出勤したのだが、15:00過ぎくらいから頭痛が激しくなってきた。水分を大量に補給し、身体を動かしてマッサージし、保冷剤を使って首などを冷やして何とかのりきったが、現時点でもちょっと指先が痺れている感じである(でも冷房はかけていない)。今週も非出勤日(休みではない)は土曜だけ、木曜も日曜も仕事がある。来週の講演の準備作業も「追い詰められてきた」感があるので、何とかこの1週間、倒れないよう走り抜けねば…。
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助走

2011-07-16 11:08:46 | 生きる犬韜
震災前後の缶詰状態のなか、苦しんで書いた文章が刊行になった。左の『環境という視座』掲載の「〈負債〉の表現」である。昨年1月に立教大学で開催された国際シンポを書籍化したもので、巻頭には野田研一、ハルオ・シラネ、小峯和明、渡辺憲司各氏の対談も載せられている(読み応えあり。シラネさんがアニミズムの重要性を強調しすぎるのは、ぼく自身は極めて違和感があるのだが…)。ぼくの文章はもはや歴史学ではまったくなく、いかなる学問に分類すべきものかも分からないのだが、それでも近年考えていることを最も色濃く表現できたかとは思っている。野田さんが、総説「二次自然と野生の自然」で光栄なまとめをしてくださっているので、以下に引用しておきたい。
 北條勝貴「〈負債〉の表現」では、人間と自然の関係をもっとも根源的に規定している〈負債〉の感覚、それを動機づける〈存在の贈与〉という認識、さらには、その前提となる〈生存の贈与〉をめぐる認識を基軸として、北條が名づける〈異類互酬譚〉の歴史を納西族、キリスト教、アニミズム、アメリカ先住民、エスキモー、仏教、トーテミズム、中国史などに辿り、転じて、日本列島における〈異類互酬〉文化の足跡を探り当てようとする。北條は、人間と自然の関係をめぐって、今村仁司や中沢新一などによって魅力的に練り上げられた諸概念を、〈負債〉感覚と〈異類互酬譚〉として再定義しながら、人類における自然との交感の歴史を、認識と存在と倫理の交錯する地点として描き出す。ここには、現在もっとも先鋭なエコクリティシズムが稼働している。
自分の尊敬している人に評価をいただけると、それはやはりありがたいことであり、またある程度責任を果たしえたという安堵感もある。シンポの報告自体は持ち時間15分という短さで内容も大雑把であったため、結局は新しく書き下ろすような形になってしまい(実証と理論のバランスのとり方も難しかった。最初に理論的枠組みを掲げてあとは実証、逆に最初に実証的事例を掲げてあとは理論、などという書き方なら極めて楽なのだが)、野田さんはじめ編者の皆さん、勉誠出版さんには大変なご迷惑をおかけした。ごめんなさい。ところで歴史学の「環境史」分野は、最近自然科学的データを活用していれば…という傾向が顕著になってきており、認識や思想、心性等々を扱ううえではエコクリティシズムの方が「やりやすくなっている」感がある。「環境文化史」は、どちらかというとエコクリに近い分野になっているのかも知れないが、両者を架橋しうる領域であることは間違いない。流行に終わらぬよう、積極的に発言を続けてゆこう。

さて、今週は授業も終了し(院ゼミの補講はあった)、事務仕事等校務に追われる毎日だった。合間あいまに研究室で東北講演の準備を進めたが、それにしても冷房を入れないと異様に暑い。次から次へと汗が噴き出してくるので集中力も持続せず、まだ落としどころがみえてこない情況である(何とかせねば…)。しかし、時折研究室へレポートの質問等々に訪ねてくる学生たちへの対応が、いい気分転換になっている。水曜には、市ヶ谷に勤務しているという卒業生のYさんも久しぶりに顔をみせてくれ、ついつい話し込んでしまった。社会人として着実に成長しているようで、頼もしい限りだ。今年の卒業生は、いろいろ大変ななかで巣立っていったわけだが、他のみんなはしっかりやっているだろうか…。
金曜は、国際教養学科のBettina Gramlich-Oka先生とランチをしつつ、Network Studiesの共同研究について相談。ネットワークより、むしろ医学史の問題で盛り上がった。Oka先生は、近世日本経済思想史・女性史・医学史と、極めて幅広い分野で活躍されている。海外の情報も含めて、勉強になることばかりだ。ぼくに何ができるのか分からないが、さらに自分に負荷をかけて勉強してゆきたい(ネットワークというと、やはり六朝文化と岩手遠野との関係が気になる。熊の伝承や亀甲のポシェットなど、東北・北陸と中国東北文化との繋がりについても考えたい)。夜は院ゼミを終えて(西洋古代史のAさんが、頑張って『法苑珠林』の報告をしてくれました!)、数人で打ち上げ。院生たちはまだまだテストやレポートがあるそうだが、一応は一区切りついたかっこうである。

それにしても、最近のジブリの政治的な動きは気になる。『コクリコ坂から』の公開を目前にして、「原発ぬきの電気で映画をつくりたい」などという無責任な横断幕を掲げたのもあざとい(まったく、そんなこと言明したところでどうするんだ!)。ぼくは、『ゲド戦記』で原作者のル=グウィンに対して行った裏切りともいうべき仕打ち以降、ジブリの道徳性・倫理性には疑問を持っている(とくに鈴木敏夫氏は信用していない)。原発に関しては、やはり現在に至る歴史を冷静にみつめ、(いかにこれまで反対をしていようと)自己の現在がその「電力文化」に依存してきたことを前提に話をしてゆかなくてはいけない。その意味で、中嶋久人さんの最近の業績や(先日はお世話になりました!)、左の開沼博『「フクシマ」論:原子力ムラはなぜ生まれたのか』は非常に大切。ま、ぼくはまずは津波だ。
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文化財レスキューへの参加

2011-07-11 19:23:39 | 生きる犬韜
今度、拙い講演にお邪魔する東北学院大学の博物館が、国の被災文化財等救援委員会の一時保管施設に定められた関係で、被災地における文化財の救済とクリーニング作業が随時行われることになっている。そこで、同大学の加藤幸治さんのご協力で、ぼくのゼミ生や史学科の学生数名がお邪魔し、作業に参加させていただけることになった。こちらの我が儘をご快諾いただき、加藤さんには感謝してもしきれない。もちろん、標記活動の一助となることが目的だが、学生にはいろいろな意味で貴重な経験となることだろう(ちなみにこの活動については、来週木曜日にTBSでテレビ放送される予定である)。

まずは27日の講演会から引き続き、私と院生3人がお手伝いをすることになっている。このときの様子如何で、また加藤さんとも相談し、もし必要があれば恒常的に作業要員を手配する態勢を整えたい。システムを整備できれば上智から補助金も獲得できそうなので、いろいろな可能性を探ってきたいと考えている。9月の初めには、ゼミの東北研修旅行の傍ら、最終日にやはり東北学院へお邪魔し、ゼミ生ともども作業をお手伝いさせていただく予定である。博物館で恒常的に作業に従事されている皆さんの足手まといにならないよう、こちらも相応の手段を講じておかねば…。どなたかに、民具の取り扱い等々の事前レクチャーでもしていただいた方がいいかなあ。

とにかく、気張るべし。ぼくは、その前に報告をきちんと仕上げよう…。

Comments (2)
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ゼミの紹介文

2011-07-11 03:38:22 | 生きる犬韜
史学科日本史コース3年の新飼早樹子さんが、史学科の公式ブログにゼミの紹介文を書いてくれました。ありがたいことです。
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授業終了、そして気持ちを東北へ

2011-07-10 14:38:34 | 生きる犬韜
さて、ようやく春学期の授業が終了となった。節電対策の関係で当初日程より2週間早い店じまいとなったが、それでも今年は例年の3~4倍はあろうかという校務量のため、本当に「やっとたどりついた」という感が強い。前にも書いたが、金曜の授業には明らかに校務の影響が出て、学生たちに迷惑をかけてしまった。秋学期はこういうことのないようにしたいが、しかし自分がパネリストを務めるシンポジウムが2つ、プロデューサーを務める学内学会ミニシンポが1つ控えているので、やはり時間配分を工夫しなければまた同じ結果になるかもしれない。だいたい、歴史学の講義を毎年新しいテーマで行おうとすると、1コマ90分の準備に出勤日1日・休日1日は確保しないと間に合わない。今期最後の2週間は、院ゼミでの報告や補講もあったのでかなりきつく、本当に授業の始まる直前まで資料を作っていて、ギリギリで印刷し見直しもしないで飛び出してゆくような状態だった。何とかもう少し余裕をもって作業し、落ち着いて聞いていられる講義にしたいものだ。
内容的には、自分では「あまり勉強ができなかった」という印象が強いのだが、それでも、一度扱ったことのある史料は細部にわたって見直しができたし、多少は新しい着想も得ることができた。概説では、鈴木靖民氏らが唱える府官制の問題を復習し、(ちょうど院ゼミで南朝関連の史料をみていたので)5~6世紀のヤマト王権の官制がやはり中国的モデルの援用であることを確認、中臣=史官(・卜官・祝官)説に大きな裏付けを得ることができた。特講では、『周礼』や『左伝』を綿密に読むことができたし、許兆昌『先秦史官的制度与分化』にも踏み込めた。そして何より院ゼミでは、西洋史や東洋史専攻、他学科・他大学から参加してくれたたくさんの院生と意見交換し、例年より多くを学ぶことができた。概説や特講との関連のなかで、『集神州三宝感通録』と「五行志」との構成的類似などを発見できたのも収穫だった。これらは、ちょうどいま書いている単行本にもすぐに活かせる成果である。また今年は、ゼミも非常にいい雰囲気で運営できている。院生のI君がしっかり報告のフォローをしてくれるし、哲学科出身のO君がスパイスを効かせてくれるのもありがたい。3年生も、だんだん積極的に発言してくれるようになってきた。学生たちにはきつい時間かも知れないが、彼らの成長を肌で感じることができるので、ぼくにとっては「かなり」嬉しく楽しい時間である。4年生は就職活動が厳しく、みていて可哀想になるほどだが、この猛暑、身体にだけは気を付けてほしい。とにかく、今期も学生には感謝である。

それにしても、これでようやく単行本執筆と東北講演の準備に時間が割けるようになった。東北学院大学博物館のブログ、ホスト役の加藤幸治さんのブログにも紹介記事が掲載されたので、責任の重さもヒシヒシと感じている。自分でもまだ落としどころはみつけられないが、とにかく海へ乗り出さねば。…ちなみに、先週特講で学生たちに易の実践をしてもらった際、東北へ研修旅行(ボランティア活動含む)へゆくことになっているゼミ生のグループに、「元いに亨る。牝馬の貞に利し。君子往く所有るに、先には迷ひ、後には主の利を得。西南には朋を得、東北には朋を喪ふ。貞に安んずれば、吉」との卦辞を持つ坤卦が出た。よりによってあの大部な『易経』のなかから、この言葉がひねり出されるとは…やはり、卜占とは恐ろしいものである。
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