仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

東北逍遥 (4):農村はいまやファンタジーの世界

2007-08-21 19:09:07 | 議論の豹韜
東北逍遥の記録の更新が遅れてしまった。ようやくお盆が終わったところに採点の〆切が近づき、また急遽環境/文化研究会(仮)8月例会の報告準備もしなければならなくなったからである。例会のことはまた今度書くことにするが、前期の採点も本日午前中にめでたく終了し、教員生活でいちばん嫌な仕事からも(一時的に)解放された。これでようやく、原稿の執筆にもとりかかれる(ちょうど某出版社からも督促状が届いたところである。恐ろしい…)。ま、並行して片付けなければならない事務仕事はあるのだが…、とにかくがんばりましょう。

さて、ゼミ旅行3日目の記録である。この日の目的地は、遠野ふるさと村。本来なら、地域全体を視野に数日かけてフィールドワークすべきだろうが、我々歴史学者は遠野初体験なので、いちおう初心者向けコースを選んだわけである(ぼくみたいなことをやっていれば、もっと早くに来ていなければいけないのだろう。いくら手垢が付いているといわれようが、ディズニーランド化しているといわれようが、「トーミ村」なのである)。旅館からタクシーで移動し(このあたりも観光的)、いざ村内へ。
しかし、恐らくは農村というものを知らないいまの学生たちにとって、ふるさと村は充分にファンタジックな世界だったようである。曲り家の土間、竈、囲炉裏、奥座敷を珍しげに眺め、馬屋から顔を出す馬に歓喜して(蹄の跡を一生懸命にたどっている学生もいた)、水車小屋に注目する(水車はどのようにして回っているのか?)。売店に改造された直家「こびるの家」では、冷たい甘酒やくるみまんじゅうに舌鼓を打つ。きれいなトマトを頬張っているものもいた。この日も非常に暑かったが、学生たちはそれなりに満足したようである。
しかし惜しむらくは、せっかく遠野に来ているというのに、独自の民俗に目を向ける態度が少なかったことだろうか。幾つかの曲り家の床の間にはオシラサマが置かれていたが、ほとんどの学生がその何たるかを知らないのだ。ちゃんと栞も配られているのだから、予習はしておいてほしいものである。自主性を重んじようとこちらから口出しすることは控えていたが、仕方ないので、像を前に座っていた何人かにはその場で簡単に説明をした。ちなみにこの家々を巡っていて気づいたことだが(つまりぼくも不勉強なのだが)、遠野では竈神も山神も男性だった。列島の他の地域では、両者とも女性と伝承しているところが多いのではなかろうか。オシラサマでも、馬=神/娘=嫁との見方に従うなら、神性を帯びているのは男性の方である。この宗教ジェンダーの形成については、少し考えてみたい気がする*1
ところで、村の入り口にかかる二つの橋のうち、曲り家にゆく方ではない橋には左のような名前が付けられていた。う~む、この先にゆくと本当に椀貸しの家があるんだろうか。なかなか手が込んでいる。

正午頃にふるさと村をあとにして、列車の時間まで駅近くにある市立博物館へ移動。「どんど晴れ!」の影響か、企画展は「ザシキワラシ」であった。図録はなぜか9月にならないとできないとのことだったが、展示自体は、佐々木喜善/柳田国男のやりとりのなかでどのようにザシキワラシが屹立してくるかを丁寧に追っていた。常設展示もなかなかよく、とくに、ふるさと村の農具展示室でもみた「亀甲を用いた銃の火薬入れ」、東方朔伝授という農業書が注目された。亀甲の方は、中国に7000年前から同様の袋(占いの道具という説もある)があるので、直接繋がっているはずはないものの驚いたわけである。なぜ亀なのだろう。機能論だけで使用されたわけではないと思うのだが、これも少し追いかけてみたい問題である。農書の方は、恐らくは近世陰陽道、大雑書などと関連があるのだろう。確か歴博の小池さんに論文があった。

博物館を観終わったあとは、なぜか蛾の大発生している(尋常な数ではなかった。家々の壁面、並木、道路、すべてに無数の蛾が張り付いていた。女子学生にとっては恐怖だったろう)大通りを駅へ向かい、新花巻駅を経て新幹線で東京へ。車内では学生たちはまたもや爆睡、ぼくは論文を読もうとしたが、さすがに疲れてうとうと、集中できなかった。いまから考えると、夜の飲み会やこの車内で、反省会みたいなものをできればよかった。学生は疲れ切ってそれどころではなかったろうが(やろうと思っても、結局はレクリエーションに流れてしまっただろう。それも悪くはないのだけれど)、もう少し「ゼミ旅行」としての体裁を整えてはおきたかった。せっかく貴重な体験をしたのだし、その意味を深く考える機会は設けておくべきだったろう。すべて来年度の課題である。次年度ゼミ長、どうぞよろしく。

*1 先行研究をまるで調べていないので、適当な立論で申し訳ない。確かに、竈神については火男説もある。しかし火男は火吹き男だから、本来は竈に奉仕する男性ではなかったろうか。
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4 Comments

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竈神 (米村)
2007-08-22 08:24:11
関係あるかどうかは分かりませんが、たしか中国の竈神は男性ではなかったかと。全くうろ覚えですが名前は「竈王爺」だったような気がします。
オシラサマの説話に関しても、何となく『捜神記』等の志怪小説が源泉じゃないか…と疑って見たり(笑)

遠野は僕もぜひ行ってみたい所ではあるのですが、やっぱり完全に観光地化しちゃってるようですね。何となく残念な気もしますが、これも時代の流れとかいう奴ですかねぇ…
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地域と多様性 (ほうじょう)
2007-08-22 12:01:12
竈神は中国でも地域、民俗によっていろいろな伝承、祭祀があるので、一概に男、女、もしくは夫婦と断定できない情況ですね。古代日本への伝播に関しても、昨年末に荒井秀規さんの論考が発表されて、かなりクリアーにはなってきました。しかし、各時代・地域によってぶれがあるはずで、遠野を直接中国や漢籍に結びつけることはできないと思います。それぞれの固有の文脈を、地域全体の歴史形成のなかで考えてゆく必要がありますね。
遠野のディズニーランド化は批判を集めていますが、難しいところで、『遠野物語』前後を本質化してしまうのがそもそもの誤りでしょう。民俗学も歴史学も、〈変わりゆく世界〉を対象としているのですから。
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変わりゆく世界 (米村)
2007-08-22 22:55:13
たしかに。
『遠野物語』の世界だけがイコール「遠野」なのではなく、時代ごとの地域の様々な姿があるはずなのに、明治・大正期成立の『遠野物語』だけに着目し、あたかもそこに書かれている事柄のみを以て「遠野」を考えようとするのは、間違いというか現代人の傲慢でしかないですね。

竈神やオシラサマの説話と中国文献との関連ですが、僕は明治以降、特に柳田が佐々木喜善から話を聞いた時点に注目したいと思うのです。
即ち、漢籍や古典に詳しく〈教養〉のある柳田が、喜善が話したと考えられる、おそらくストーリーの矛盾が多く整合性に乏しい「原型」の伝承に対して、意識的か無意識的かはともかくある程度の「編集」を加えているのではないか、ということです。
これは柳田以降の民俗学者全員にも言える事ですが、何かの伝承=原型を採集した時点で、そこに採集者の持っている知識や思想が加わり、意識的・無意識的に何らかの編集作業(所謂「脳内変換」)が行われ、伝承自体が変質してしまうこともあるのではないかと思うのです。
つまり、伝承の伝播や歴史的形成といった古い段階でなく、採集された時点という一番最新の段階における伝承の「変質」を見るなら、そこに漢籍や志怪小説の要素が入り込んだケースもあったのではないかと。

こういうことを一々想定していたら学問が成立しないのかもしれませんが、僕自身が民俗学に対して抱いた〈疑い〉というのが将にこの部分なので、ついつい拘ってしまうんですよねぇ(苦笑)
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むしろ (ほうじょう)
2007-08-22 23:51:40
いやいや、むしろ90年代前後からの民俗学や柳田研究は、上の米村さんのコメントにある視角が一般的なんですよ。むしろ、自分を()に入れて、柳田やそれ以降の巨人たちを叩きすぎた。00年代はそのベクトルを自分たちに向けようとした時期で、心ある人類学者、民俗学者、社会学者、歴史学者はみんな悩んだ。ぼくらが方法論懇話会でやってきたこともそうで、先へ先へ、奥へ奥へと自分を追い詰めていったために、苦しくて苦しくて仕方なくなってしまった(ある種、自己啓発セミナーのようだった)。いまは、それを受けとめながらどう個々の情況に立ち向かってゆくかという段階で、米村さんのいうコダワリは前提として、もう一度現場と格闘しているわけです。遠野は(専門外で不勉強ながら)、未だに『遠野物語』以前との歴史的接続が充分でない。柳田/佐々木の時点で考えるのはむしろ簡単で、それ以前の言説史をどう描き出すのかが困難な課題なんですよ。
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