仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

『キタキツネ物語』をめぐる民族学的想像力

2016-10-30 11:57:12 | 議論の豹韜
以前に「四谷会談」で加藤幸子さんの新作小説を扱った際、かつては動物文学がもっと盛んで、書店にも「動物文学」の棚があった、という話をした。戸川幸夫や椋鳩十は当たり前で、海外文学はもちろん、幾つかの書名をいまも覚えている。そのときふと気になったのが、高橋健による児童文学『キタキツネのチロン』と、蔵原惟繕監督のサンリオ映画『キタキツネ物語』の関係だった。後者については今さらいうまでもないが、日本文化において培われてきた「ずる賢い」「陰惨な」キツネのイメージを、「健気な」「凜とした」印象へ塗り替えてしまった画期的な作品である。オホーツク海を埋め尽くした流氷の彼方から、北海道は釧路の雪原に降り立ったキタキツネのフレップ。彼は、その地の厳しい自然や人間との格闘のなかで、恋人と出会い、家族を作り、そして大切なものを失い/残し、再び流氷の彼方へ去ってゆく。筋立てとしては、蔵原が日活時代に撮っていた無国籍映画そのものなのだが、随処に使用されたドキュメンタリー・フィルムが、単なるフィクションに終わらない説得力を持っていた。映画が公開された1978年夏(なんと『スター・ウォーズ』とぶつかっていたのだ)、ぼくはまだ小学生だったが、サンリオ出版から出ていたフィルム・ブックと上記『チロン』を購入し、むさぼり読んだ覚えがある。『チロン』は、登場するキツネたちの名前こそ違うが、ストーリーはほぼ共通している。そこで気になったのが、同書は映画のノベライズなのか、それとも原案なのか、あるいはまったく関係なく作られたものなのか、ということである。これは、映画『キタキツネ物語』製作の経緯にも関わる。
そこで、幾つか資料を集めてみた。まず『チロン』のあとがきを確認してみると、同書は単なるノベライズではなく、映画の原案を話し合うなかでまとめたものを、あらためて児童文学にリライトしたものだと分かった。しかし、あくまで児童文学なので、詳しい経緯は書かれていない。そこで、公開当時の『キネマ旬報』1978年7月下旬号をみると、当時のスタッフによる座談会とシナリオが採録されており、概ね製作の経緯と過程が明らかになった。まず、ドキュメンタリー部分の核になったのは、キタキツネの研究者として知られる竹田津実の記録で、これを自身が編集する動物雑誌『アニマ』に紹介した高橋健が、動物映画を撮ろうと動き始めていたサンリオへ話を持ち込んだらしい。サンリオ映画としての製作が決まってからは、高橋がキタキツネの1年を軸に原案を書き、4年かけて素材の撮影を行った。そうして蓄積された45万フィートに及ぶフィルムを、最終的に1本の劇場映画としてまとめてゆく際、蔵原が参加して脚本を書き、キツネの心情をヴォーカルとして表現すること、説明的な台詞を排し物語り的に構築することも決められていったという。恐らくこの段階で、脚本の流れから足りない素材を、飼育されたキタキツネを利用して撮影していったのだろう。なお、キツネの夫婦に目のみえない子供が誕生したことや、素材撮影の途中で多くのキツネが死んでいったことは、生態的な意味での事実であったようだ。ただし、追加撮影のいわゆる「作り」の段階で、飼育キツネにどのような演出が施されたのかは分からない。
座談会を読んでいて興味深かったのは、製作陣が一致して、キタキツネの「子別れの儀式」を映画の最大の魅力としていることだった。蔵原は以下のように述べている。「生物学的には、あの儀式は本能の行為です。大昔とは型式は違ってきていますが、人間にも本能としての親と子の別れは、あるわけです。今は甘えの構造とか、断絶があるので、もっとプリミティブに見直してみようじゃないかと思ったし、ある種、信仰に近い形で、プリミティブなものは美しくて根源的だ、という思いが演出していく上での私のベースになっていた。そういった点で、"子別れの儀式"は僕自身、観て驚き、感動したし、この映画の現実といいましょうか、ドキュメンタリーの白眉ではないかという気がします」。土居健郎の『甘えの構造』。「過保護」という言葉が一般化したのも、この頃であったかもしれない。そして、「プリミティブ」という言葉。「何回も繰り返しますが、もっとプリミティブなものを見つめていくことが必要な時代でもあるんですね。そういうことを、われわれは日常の生活の中で、一切ぬぐいさっている。僕はドキュメンタリー撮影のため、ピグミー族とジャングルで二ヵ月程生活した時、そのことを痛感しましたね。ちょっとキザな話ですが、ホイットマンが死期が近付いた時、"単純なものはすごいんだぞ"ということをつぶやいたと、若い頃何かで読みましたが、ピグミーやインディアンと一緒に生活してみて、ああ、そうかなと、だんだん思うような年齢になってきた。そんな時に、この映画に出会えたのは、すごく幸せだった」(ともに64頁)。1978年といえば、レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』が川田順造によって翻訳された、その翌年に当たる。国立民族学博物館が開館したのも、1977年11月だった。近現代の芸術は、常に「プリミティヴ」なものに触発されていたが、この時代にもそうした思潮があり、『キタキツネ物語』成立の原動力になったと思うと、面白い。
それにしてもこの映画、『スター・ウォーズ』の向こうを張って興行収入59億円をあげ、『もののけ姫』に抜かれるまで20年日本映画のトップに輝いていた割に、公刊されている資料が少ない。日本動物映画史、あるいは動物文学史を考えるうえでも、またエコクリティシズムや環境人文学の対象としても、もっと言及されていい気がする。素材部分の撮影の苦労、演出部分の実態と困難、物語の確立までの具体的な議論など、現在も活躍されている関係者への聞き取りや諸資料の発掘を通じ、もっと公けに共有されるべきではなかろうか。
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原尻英樹さん、という文化人類学者

2016-09-19 06:05:28 | 議論の豹韜
幸いなことに、未だ授業は始まらないが、先週から今週にかけては、卒論合宿、カトリックAO入試、海外就学者入試などのイベントがあり、秋学期から来年度へのこまごました事務作業が目白押し。ジャパノロジー・コースの統括や学科カリキュラム再編を担っていると、会議や関係各所への連絡、書類作成だけでどんどん時間が取られる。『上智史学』の編集、文学部初年次研修のコース選定なども同時進行のため、睡眠時間を削って原稿に向かわざるをえないが、情けないことに、若いときのように捗らない、がんばれない。体力と集中力の衰えを感じる…。卒論や修論の追い込みにかかる学生、院生を叱咤激励しつつ、自身のこの為体はいかんともしたがい。

ところで昨日は、京都から畏怖すべき文化人類学者=武道家、原尻英樹さんが調査のために来京されていて、四ッ谷にて2年半ぶりに再会することができた。原尻さんはたいそうタフでパワフルな人で、とにかく語る言葉に途切れがない。会議が遅くまでかかったので20:00からの会食となったのだが、お目にかかって開口一番、「北條さん、昨日も徹夜しただろう。何度いっても無駄だと思うけど、もうだめだよ、それじゃ。早晩死んじゃうよ!」とお叱りを受けた。facebook上でもいつもご叱正をいただくのだが、今回は「このあいだも、あー北條さん京都でゼミ旅行か、学生引率して大変だな、と思っていたんだ。もう学生なんてほっときゃいいんだよ!いい顔ばっかりするからいけないんだ。死んだら残るのは業績だけだ、とにかく早く本書きなよ」ともっともなご意見。しかし、誰かがどこかで自分のことを心配してくれているというのは、本当にありがたいことだ。こんなに不義理な人間なのに。
原尻さんとは、やはりfbが繋ぐご縁というやつで、どこかのポストを通じて知遇を得て、メッセージ・スレッドで何度も何度も理論や方法論をめぐる議論をし、たくさんのことを教えていただいた。年齢は一回りも違うけれど、なぜか可愛がっていただき、実は直接には2回しかお会いしたことがないのに、忌憚なくお話をしてくださる。昨日は、コリアンとは異なるエトランゼとしての朝鮮族の、ナショナル・アイデンティティ、エスニック・アイデンティティとは無縁の自由さ、柔軟さ。移動した先の人々と生産的な贈与交換を行う、強靱な共生の技法。個別の顔と顔を接し、歌や踊り、山登りなどの身体技法を通じて構築されるネットワーク。ぼくが中国西南民族に見出している移動のセンス、メンタリティの豊かな展開について伺って、たいへん満腹になったのだった。途中からは工藤健一さんも加わって、武道の話、環境史の話、江戸の習俗の話なども。たった2時間だったが、非常に豊潤なときを過ごすことができた。今後とも、ご教導をお願いする次第である。

写真は、まず原尻さんの新刊。環東シナ海の交渉・交流を考えるうえで重要。あとの3つは、今回の初年次研修フィールドワークで訪れる場所のひとつ、四ッ谷大木戸跡に置かれた由来不明の八面石塔、太宗寺の塩掛け地蔵、正受院の奪衣婆。咳止めなどの効能があるが、京都のお地蔵さんが願の成就によって五色の真綿を重ねられてゆくのに対し、こちらは白い真綿を被せてゆく(表象はずいぶん違うが、地獄信仰としての構造は同じか)。塩掛け地蔵など、清めのごとく塩を掛けられてしまうわけだが、川越広済寺のしゃぶき婆を思い出す。あちらも咳止め、願成就には紐を結んでゆく形式だった。まさに江戸の境界:内藤新宿を象徴する道具立てだが、柳田国男「石神問答」に描かれた姥神伝承との関連でも面白い事例。1年生にどう説明するか、〈物語り〉を練っておかねば。
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パブリック・ヒストリー研究会公開シンポジウム、終了

2016-09-12 22:10:18 | 議論の豹韜
昨日の「パブリック・ヒストリー」公開研究会、無事終了。思ったより多くの方々にお越しいただき、懇親会も含めていろいろな話が聴け、得がたい経験をした。菅豊さんの力こもりすぎのイントロダクション、岡本充弘さんの現状を浩瀚に俯瞰する周到な講演があり、自分はあまりコメントすることがないなあと思っていたが、岡本さんのお話の多少分かりにくい部分を明確にするよう、ディフォルメを心がけて質問し、また今後のパブリック・ヒストリー研究の論点になりそうなことも、2〜3指摘したつもり。 ちなみに、ホワイトのいうヒストリカル・パスト(historical past、「歴史的な過去」と訳されている)をプラクティカル・パスト(practical past、「実用的な過去」と訳されている。ぼくは「実践的過去」という訳語を使用)に対置されるものではなく、近代科学主義民族(modern scientism tribe)の歴史実践に過ぎないと規定した議論、特権的なものでもなんでもないのだと主張した点は、それなりに玄人ウケした。
しかし、このところの言語論的転回をめぐる動向で、極めて気になっている点については、あまりこの会の趣旨にそぐわないだろうとは思いつつ、質問せざるをえなかった。すなわち、00年代後期に停滞を迎えた言語論的転回をめぐる議論が昨今また復活してきたこと、それはそれで歓迎すべきなのだが、その方向性やインパクトが、90年代当初と比較して希釈されてしまっている点である。具体的には、「言語の世界構成機能」に関する論点の捨象。ぼくからすれば、バルトの「作者の死」も、デリダの「テクスト外というものはない」というテーゼも、この論点をもとにしてこそ理解できるものだ。歴史学がこれを踏まえてテクストを論じようとすると、さまざまな仮定や想定を幾重にも積み重ねねばならないことになり、極めて面倒くさい。方法論懇話会で議論していた折、これらの難問に立ち向かうために、クリサート・ユクスキュルの議論から始めて、認知物語論に至るまで勉強し、人間が自らの環境を構成するその方法について、自分なりに理論構築していった。いまのぼくの環境文化史は、そのあたりのことが基底になっている。環境史に大きく踏み出せたのも、言語論的転回の「質問状」に、具体的に応えようとしたからだ(このとき書いた論文は、『史学雑誌』回顧と展望で、「北條は言語論的転回を思想史の範疇に押し込めようとしている」と、まったく逆ベクトルの読み方をされて〈というか読んでいなかったのだろう〉一蹴されたけれども)。しかし一般的には、これは「歴史学の議論ではない」。それゆえに歴史学では、言語論的転回を自学の俎上に載せるために、希釈に希釈を重ねてほとんど別の問題に作り変えてしまった。そこでの中心的論点である「言語が対象を正確に把握できるか」なんて、アリストテレス的言語観で、ソシュール以降の考え方にはそぐわないだろう。ヒストリカル・パストの特権性を剥奪し、下位の歴史構成や歴史の担い手をとりあげるなどといった傾向も、むしろ社会史の議論であって(すでに、セニョボス/シミアン論争にみられる)、言語論的転回とは本質的な関係がない。7月の長谷川さんの書評会の際にも、その違和感は拭えなかった。
これについて、岡本さんからは納得のゆく答えを引き出すことはできなかった。会場には鹿島徹さんもいらっしゃっていたので、コメントをいただきたかったが、「疲れたから今日は帰るね」と懇親会にはおみえにならず。懇親会の場でいちばん詳しそうな内田力さんとは、概ね理解が一致したと思うが、「希釈したから扱えるようになったので、そこはポジティヴに評価してもいいのでは」と。まあ、それもそうかもしれないが…結局、言語論的転回は歴史学を開こうとした、ある意味ではその可能性を拡大しようとしたのだが、大部分の歴史学者はその実践の困難に耐えきれず、逆に閉塞し、「強烈な毒ゆえに薬にもなりえた液体を、甘い水になるくらいまで懸命に薄めてきただけではないのか」。まあ、ぼくの議論も到底完成されているとはいえず、水を注いでいるばかりかもしれないのだが。そんなことも考えた1日だった。
なお懇親会では、民俗学その他の関係の方々から、理論や方法論に関するさまざまな著作を頂戴し、新たな課題をみつけだすことができた。感謝、感謝である。また思いもかけず、尊敬する川本喜八郎氏と一緒にスタジオで作品を作っていたという!方にお会いし、かなり長い時間お話を伺うことができた。あの優しげな川本さんが、全身に刺青をされていたとか…! ほとんど聞き取り調査だが、またあらためてきちんとお話を伺いたい。歴史学と映像との関係を考えるうえでも、貴重な体験となりそうだ。

※ 質疑応答での発言のうち、斎藤英喜さんの「保苅実はカスタネダになったのか否か」という議論、上智の学生Y君の「歴史戦における公正さをめぐる議論は、結局事実性を基準とせざるをえないのか」という質問、武井基晃さんの「自分とインフォーマントを同レベルの歴史実践主体と把握した場合、相手の〈誤り〉を指摘し、こちらの〈答え〉を示すのは、保苅的には適切なのか否か?」という議論は、歴史学者としてはかなり本質的な問いと感じられた。cross-culturalizing historyが、実際はどれだけ困難かも指し示しており、その問題意識の幾らかは、ぼくも共有している。今後も、できれば一緒に考えてゆきたい。また、保苅実が本当に目指したこの理想が、日本の関連分野でほとんど言及されないのは、やはりポストモダン民族誌の議論が充分咀嚼されず、定着しなかったからなのかもしれない。すなわち未だ日本では文化相対主義が主流で、それは客観主義的対象把握の裏返しなのだという議論が、歴史や文化を考える際の前提とはなっていないのだろう。
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人文学系情報発信型ポッドキャスト「四谷会談」第24回/加藤幸子『十三匹の犬』を読む

2016-07-01 21:14:00 | ※ 四谷会談
気がつくと、もう夏も本番に近付いております。久しぶりの「四谷会談」をお届けします。

今回は、エコクリティシズムの分野で注目を集める加藤幸子さんの新著、『十三匹の犬』を採り上げます。戦前から現在に至るまで、ある家族に飼われてきた13匹の犬たち。その生きざまから犬と人間との関わりを考える、珠玉の短編集です。加藤さんの語り口は、犬の目から世界を描いてゆくものですが、その描き方にはどのような良さ、あるいは問題点があるのか。犬のナラティヴに付される、人のナラティヴにはいかなる意味があるのか。単なる鑑賞には終わらない、自然環境と人間との関係を考える意見交換となっています。
また今回は、これまで四谷会談にも参加をしてくださった森田系太郎さん、上村崇さん、そしてジャズ・ピアニストの上村美智子さんをお招きしました。お三方の語りにも注目です。

選挙から水不足、福島から沖縄まで不安と心配の種は尽きませんが、皆さまの心が少しでも軽くなりますように(反対に重くなってしまったらごめんなさい)、お楽しみいただけましたら幸いです。

《第24回 収録関係データ》
【収録日】 2016年7月1日(金)
【収録場所】 上智大学7号館9階北條研究室
【収録メンバー】山本洋平(司会・トーク:英米文学・環境文学)/工藤健一(トーク:歴史学・日本中世­史)/堀郁夫(トーク:株式会社勉誠出版編集部))/上村崇(トーク・ゲスト:哲学・倫理学­)/上村美智子(トーク:応用昆虫学・音楽家)/森田系太郎(ゲスト:通翻訳者・環境文学)/北條勝­貴(司会・技術・トーク:歴史学・­東アジア環境文化史・心性史)
【主題歌】 「自分の感受性くらい」(作詞:茨木のり子、曲・歌:佐藤壮広)
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人文学系情報発信型ポッドキャスト「四谷会談」第23.2回/学問の公共性から存在論的転回へ・後篇

2016-03-28 21:12:38 | ※ 四谷会談
「学問の公共性から存在論的転回へ」後篇です。

《第23.2回 収録関係データ》
【収録日】 2016年3月28日(月)
【収録場所】 上智大学7号館9階北條研究室
【収録メンバー】北條勝­貴(司会・技術・トーク:歴史学・­東アジア環境文化史・心性史)/工藤健一(トーク:歴史学・日本中世­史)/岩崎千夏(トーク:日­本文学・中国語)/天野怜(トーク:歴史学・中国近代史­)/堀郁夫(トーク:株式会社勉誠出版編集部))
【主題歌】 「自分の感受性くらい」(作詞:茨木のり子、曲・歌:佐藤壮広)
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人文学系情報発信型ポッドキャスト「四谷会談」第23.1回/学問の公共性から存在論的転回へ・前篇

2016-02-28 20:20:59 | ※ 四谷会談
気がつくと、新年度が始まっております。すでにもう息切れ、こんなことで1年間保つのかなと心配な皆さんもおいでかと思いますが、我々も一様にそんな状態です。四谷会談、第23回をお届けします。

今回は、収録時間が長くなってしまいましたので、例のごとく前後編に分けてお送りします。テーマは、「学問の公共性から存在論的転回へ」。まず、前回やや消化不良に終わってしまった「公共性」の問題について、列島社会でそれを論じることの恐ろしさを、社会の様態や歴史過程を視野に入れつつ意見交換してゆきます。それが紛れもなく、弱きもの、小さきものへの抑圧の歴史であることも…。そこから浮かび上がってくるのが、近年話題の、人類学における「存在論的転回」。ちょうど。会談メンバーの堀さんが、「転回」をめぐる出版の動きに絡んでいることもあり、現時点での受容のあり方、今後の課題や可能性などを中心に論じてゆきます。とくに、一般的には「人類学で動植物を扱うこと」と思われているこの動きを、無生物、サイボーグ、ハイブリッドなものへと拡張してゆく方向性が強調されています。どうぞ、ツッコミを入れながらお聴きください。

なお、初期メンバーの岩崎千夏さんが、一時中国へ移住される関係で、ひとまず今回が最後の出演となります。皆さまも、彼女の門出を
祝っていただければ幸甚です。


《第23.1回 収録関係データ》
【収録日】 2016年3月28日(月)
【収録場所】 上智大学7号館9階北條研究室
【収録メンバー】北條勝­貴(司会・技術・トーク:歴史学・­東アジア環境文化史・心性史)/工藤健一(トーク:歴史学・日本中世­史)/岩崎千夏(トーク:日­本文学・中国語)/天野怜(トーク:歴史学・中国近代史­)/堀郁夫(トーク:株式会社勉誠出版編集部))
【主題歌】 「自分の感受性くらい」(作詞:茨木のり子、曲・歌:佐藤壮広)
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人文学系情報発信型ポッドキャスト「四谷会談」第22回/学問の公共性

2016-01-22 21:08:00 | ※ 四谷会談
いつの間にやら2015年度ももうすぐ終わり。3ヶ月ぶりとなりますが、「四谷会談」第22回をお届けします。

今回は、このところあらゆる学問領域で耳にするところの、「学問の公共性」がテーマ。学問は公共性に、どのようにコミットできるのか。あるいは、学問に公共性は存在するのか。これまでの会談の傾向からすれば、少数民族と国民国家、キリスト教文化圏とイスラム教文化圏…などなどへ話が進みそうですが、なぜか今回は議論が混乱気味。優秀な司会者が、欠席だったからでしょうか。そして話題は、学問が育てられ、試される場でもある教室へ、教員と学生との関係へ…。しかしある意味でそれは、四谷会談に最も相応しい話題だったのかもしれません。

また今回は、再び関西方面よりゲストをお招きしています。我々会談メンバーとは旧知の仲、新進気鋭の民俗学者 大阪大学大学院の黛友明さんです。黛さんの冷静なツッコミが、どこにどう入るかも聞きどころ。しばらくお付き合いください。

《第22回 収録関係データ》
【収録日】 2016年1月22日(金)
【収録場所】 上智大学7号館9階北條研究室
【収録メンバー】是澤櫻子(司会・トーク:歴史学・アイヌ史・口承文芸論)/黛友明(トーク・ゲスト:民俗学­)/工藤健一(トーク:歴史学・日本中世­史)/岩崎千夏(トーク:日­本文学・中国語)/天野怜(トーク:歴史学・中国近代史­)/堀郁夫(トーク:株式会社勉誠出版編集部)/北條勝­貴(技術・トーク:歴史学・­東アジア環境文化史・心性史)
【主題歌】 「自分の感受性くらい」(作詞:茨木のり子、曲・歌:佐藤壮広)
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人文学系情報発信型ポッドキャスト「四谷会談」第21.2回/ドメスティケーション後篇

2015-11-02 21:05:53 | ※ 四谷会談
第21回、後篇です。前篇と合わせてお聴きください。

《第21.2回 収録関係データ》
【収録日】 2015年11月2日(月)
【収録場所】 上智大学7号館9階北條研究室
【収録メンバー】山本洋平(司会・トーク:英米文学・環境文学)/是澤櫻子(司会・トーク:歴史学・アイヌ史・口承文芸論)/工藤健一(トーク:歴史学・日本中世­史)/岩崎千夏(トーク:日­本文学・中国語)/堀郁夫(トーク:株式会社勉誠出版編集部)/北條勝­貴(技術・トーク:歴史学・­東アジア環境文化史・心性史)
【主題歌】 「自分の感受性くらい」(作詞:茨木のり子、曲・歌:佐藤壮広)
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人文学系情報発信型ポッドキャスト「四谷会談」第21.1回/ドメスティケーション前篇

2015-11-02 21:01:06 | ※ 四谷会談
11月も下旬に差しかかりましたが、異常なくらいに暖かい日々が続いております。何かの影響か…と勘繰るのは、穿ちすぎでしょうか。「四谷会談」第21回をお届けします。

今回は、第20回「絶滅」の余韻を受けて、「ドメスティケーション」をテーマに据えました。現在、我々を取り巻く「自然」は、驚くほどに品種改良をされたものばかりとなっています。ペットとして飼っている犬や猫、観賞用に並べられた草花、人間の食生活の根本をなす種々の農作物、家畜たち。これまで自然だ、野生だと思ってきたものまで、遺伝子レベルで操作されていることも屡々です。
近年、人類にとって最初の家畜であるイヌが、15000年前に中央アジアで誕生したとの、DNA分析による研究成果が発表されました。まだ、人類が定住せず、移動生活を営んでいた頃のことです。それほどの昔から、人間は自然を生命レベルで作り変えてきたのです。
いま、そのことによって何が問題として起きているのか、起きつつあるのか。私たちはその現実を、どのように受け止めていったらよいのか。

今回は、正当なるリスナーとしてこの番組を「発見」してくださっていた、大阪大学大学院の日下宗大さんをゲストにお迎えし、例のごとくとりとめもなく議論してゆきます。秋の夜長のおともに、ぜひどうぞ。

※ なお、収録時間が長くなったため、前篇/後篇に分けてお送りします。

《第21.1回 収録関係データ》
【収録日】 2015年11月2日(月)
【収録場所】 上智大学7号館9階北條研究室
【収録メンバー】山本洋平(司会・トーク:英米文学・環境文学)/是澤櫻子(司会・トーク:歴史学・アイヌ史・口承文芸論)/日下宗大(トーク・ゲスト:英文学­)/工藤健一(トーク:歴史学・日本中世­史)/岩崎千夏(トーク:日­本文学・中国語)/堀郁夫(トーク:株式会社勉誠出版編集部)/北條勝­貴(技術・トーク:歴史学・­東アジア環境文化史・心性史)
【主題歌】 「自分の感受性くらい」(作詞:茨木のり子、曲・歌:佐藤壮広)
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人文学系情報発信型ポッドキャスト「四谷会談」第20.2回 思想としての生態系と"絶滅"2

2015-10-25 04:41:18 | ※ 四谷会談
10月もいつの間にやら下旬となり、朝夕も肌寒い陽気となってまいりました。「四谷会談」第20.2回をお届けします。
今回は、福山から誕生日を迎えたばかりの上村崇さん、四谷会談をずっとサポートして下さっているライターのヤマザキ・マミコさん(仮名)をゲストにお迎えし、前回より引き続き「絶滅」について議論します。
安保法制の「採択」以来きな臭い世のなか、「絶滅」はよりリアルさを増して我々の眼前に立ち現れています。またそのなかで、戦後の日本が慣れ親しんできた「平和」という言葉も、その意味を変容させつつあるようです。「絶滅」とは何か、「平和」とは何か。長尺でユーモアたっぷりに炸裂する上村トーク、ヤマザキさんの貴重な体験談、翻弄されるレギュラー・メンバー。佐藤壮広さんの沖縄からの報告もあります。
今回も聞きどころ満載?ですので、どうぞ最後までお付きあい下さい。

《第20.2回 収録関係データ》
【収録日】 2015年10月9日(金)
【収録場所】 上智大学7号館9階北條研究室
【収録メンバー】 是澤櫻子(司会:歴史学・アイヌ史・口承文芸論)/上村崇(トーク・ゲスト:哲学・倫理学­)/ヤマザキ・マミコ(トーク・ゲスト:ライター)/工藤健一(トーク:歴史学・日本中世­史)/北條勝­貴(技術・トーク:歴史学・­東アジア環境文化史・心性史)
【主題歌】 「自分の感受性くらい」(作詞:茨木のり子、曲・歌:佐藤壮広)
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