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深夜の宴会

段々日々の現実に戻されていますが大切な出来事。残しておきます。
お母さんの教会での告別式、火葬の後、家に戻り深夜に大矢君、お父さんお母さんと宴会です。
大矢君、お父さんお母さんにビールをついで乾杯です。
お母さんは少しでいいと言っていつものように場を読みません。お父さん笑っています。
大矢君、二人の写真を見て「二人天国で会えたかな。お互い許せたかな」「僕が二人の橋渡しになれたかな」あっお父さんがよくやったよと言っています。
お母さんが、これ飲んでと言い大矢君が飲みます。大矢君、酔いがまわってきたところでお開きです。大丈夫大矢君、やることやれました。お疲れさま
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教会での母の葬儀への言葉

疲れが出て来ましたが、記憶が薄れないうちに書き残しておきます。
母が通っていた教会で告別式を行ってもらいました。
僕が喪主で最後にお礼の言葉を伝えました。

兄と私2人それぞれ話させてください。
本日は母のために集まってくださり本当にありがとうございました。
母も喜んでいると思います。

僕の母は3,4年前から終活を始めて、いい遺影用の写真が撮れないとずっと言っていました。
そこで僕も母の写真を撮り始めたのですが、なかなかいい写真が撮れませんでした。
僕が母にカメラを向けると、母は構えてしまい固い表情になってしまいました。
そんなことをしているうちに母が入院して写真が現実のものとなって来ました。
母がホスピスに入って、僕は母がしまってあると言っていた父の仏壇の引き出しを開けました。
そこには母の若い頃の写真、結婚式の時の写真、親戚の人との写真などがありました。
でもどれも母はきつい表情をしていて笑っていませんでした。
そんな中で僕が以前撮って忘れていた写真が出て来ました。
この写真は笑っています。
僕はこの写真を大きくプリントアウトして病室に貼って母に見せました。
「お母さん、最後は笑ったんだよ。勝ったのだよ」と僕は繰り返し言いました。
そうしたら母はうなずいて、その写真を10秒ぐらいじっと見ていました。

母はここの教会に来て変われたのだと僕は思います。
母の罪もゆるしてもらえたのだと思います。
そして母自身が自分をゆるせたのだと僕は思います。
今日の式、お母さんが本当に望んでいたことだと思います。
お母さん、よかったね。
みなさん、本当にありがとうございました。

僕もお母さんにいい親孝行が出来たかなと思えて来ました。
考えてみれば僕はお母さんが喜ぶからと思い、洗礼を受けた。
それはこの日のためだったのかなとも思います。
お母さんの願い通りに出来たかなと思います。
でもそれだけでなく、僕はこれからもお母さんのたどった信仰の道を追って歩いてみようかなとも思います。
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日記が僕の宝物

母の教会での告別式、そして火葬が22日に無事終わりました。
ありがとうございました。
内容が濃すぎてまだご報告出来ませんが、僕の日記にしっかり書きました。
僕の日記は宝物です。
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僕が喪主

今日は母も入ることになる父のいるお墓を掃除しました。
草を抜いて枯葉を取って、かなりていねいにきれいにしました。
墓石の周りにひいてある小さい石がより黒く見えるようになりました。
それから近くの海に行き、母の教会でしてもらう告別式で僕が最後に話すことを書いてみました。

僕が撮った写真で遺影にした写真。お母さんが笑っている写真。
僕がお母さんに「最後笑ったんだよ。勝ったんだよ」と繰り返し言って、
お母さんがうなずいて、その写真をじーっと10秒間ぐらい見ていた。
お母さんはゆるされたのだと思う。そしてお母さん自身が自分をゆるせたのだと思う。
お母さんは変われたのだと思う。

僕は母が生きている間は僕がしっかりと看取り、後は兄がやってくれると思っていたのだけど、
喪主が僕になった。教会の人たちが手伝ってくれてほとんどやってもらうのだけど。
それでも兄は母が亡くなってから実家に来ていろいろな手続きを進めてくれているので分業体制になっている。

あともうひと頑張り。頑張ります。
でも正直なところは僕は母が生きている時を重視して、亡くなったらそこまでと思っていました。
明後日まで続く母のライブのアンコール、一生懸命努めます。
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僕のお母さん その3

母が亡くなって翌日。今日は朝起きて寒く感じてさみしくて涙が出ました。
でも風呂に入り、上がってドライヤーをかけていたら日記を書こうと思いました。
そうしたら楽しくなってきました。
日記、ブログ、フェイスブックに母との思い出を書いていこう。
母を思い出すのが供養になるのだと思います。

ホスピスに泊まり込んで3日目の夜。
初めは看護婦さんから経験上もう長くないと思う。でももしかしたら経験上の新記録を更新するかもしれないと言われてその気になりました。
お母さんは一緒に寝ていて呼吸が荒いなと感じました。
でもそんなに危機感を持たずに僕は寝ていてトイレに4時半頃行って戻って来たら看護婦さんが心配そうな顔をして部屋の前にいました。
母の血圧ももう測れないと言われました。
兄に電話して電気も点けて母の看取りが始まりました。
徐々に弱くなる呼吸、表情も弱って来ました。
僕はお母さんに何度も同じことを言いました。
「お母さんは笑ったんだよ。勝ったんだよ。かっこいい。ありがとう」
そうするとお母さんは目でうなずいてくれました。
でも徐々に弱っていく。外の強い雨風が部屋のガラスに打ちつけていました。
でもなぜかその状態が続きそしてお母さんは盛り返して来ました。そして兄が来ました。
僕は助かった。よかったと喜びました。

そしてまた僕はお母さんが目を開けているように思った時に同じことを言いました。
「お母さんは笑ったんだよ。勝ったんだよ。かっこいい。ありがとう」
お母さんは目に涙をためていました。目が赤くなっていました。僕の言葉が通じました。
そうしているうちにまたお母さんの呼吸が弱くなりました。
そして息つぎが間隔が空いて途切れていよいよ最後の一息かと思ったのですが、まだ終わりません。
そうこうしているうちにまた盛り返して来ました。
そうしていると母の教会のお友達が来てくれました。
僕はトイレに行き、スタッフルームの人たちに
「母が盛り返しました。もう最後の一息だと思ったぐらいでしたが」と笑って話して、看護婦さん、先生も笑顔で返してくれました。

僕はホスピスに泊まり込んでほとんど眠れずにふらふらになっているうちに思いました。
これはブルース・スプリングスティーンのライブを観に来ている時と似ているぞ。
ライブが終盤になり、ああ楽しかった、終わってしまうのかと思ったらアンコールがある。
そのアンコールも終わりに近づき、ありがとう楽しかったありがとう、終わりだなと思ったらさらにアンコールがある。
僕はもうふらふらで立っているのもつらい、でも楽しい。ふらふらして僕は笑っている。

僕は母にもう言うことはみんな言いました。でもお母さんはまだ頑張って生きていてくれる。
僕はもう充分母に話せました。でもまだ話せる。「約束の時」のように感じました。
そうこうしているうちにまた母が落ちて来ました。
でもまた盛り返して、そうしていると教会の牧師先生まで来てくれて、よく来てくれましたとお祭り騒ぎのようになりました。
母の看取りライブはアンコールが続き2日目に入りました。
僕は外の空気を吸ってくればいいと言われて外に出てペットボトルのお茶を飲み、戻ってひげもそりました。
そうしているうちに呼ばれて部屋に戻ったらライブが始まっていました。
僕はさらにもう一度、いや二度「お母さんは笑ったのだよ」と言いました。
するとお母さんはうなずきました。二度です。
そうしているうちにふっと顔色が薄くなり弱弱しくなりました。そしてお母さんは自分で目を閉じました。

先生のお祈りがあり、看護婦さんを呼んで、そして先生が来て亡くなったと宣言されました。
外は晴れていて、暑くなる予想だと話が聞こえました。
僕の生涯ずっと覚えている最高のライブでした。
お母さんありがとう。頑張ったよ。勝ったんだよ。かっこいいよ。ありがとう。
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僕のお母さん その2

僕の母が今日亡くなりました。
亡くなったのだし遺影でもないので写真を載せさせていただきました。
僕の母は初期の肺がんで手術してから闘病生活が始まりました。
そして今日終わりました。
これから少しずつ書いていこうと思います。

まず今日は闘病生活の最後、ホスピスに入って最後の4日間を書きます。
看護婦さんから、いよいよお迎えが来そうと言われたので僕はホスピスに泊まることにしました。
いきなり言われて決めたので僕の飲んでいる薬も無くてその日はほとんど眠れませんでした。
それでもお母さんの隣に簡易ベッドを置いて一緒に寝て何か楽しかったです。
翌日ふらふらで部屋に戻りあわてて薬にひげそりシェーバー、下着を持ってすぐに病室に帰りました。
仕事は2日間休みをもらい1日は公休日で3日間休めました。
もう起きているのがつらいので昼間から母と一緒に寝ていました。
でも母は無事でした。

3日目の夜はまた今日もかと開き直りの気持ちになり楽しくなりました。
母は昏睡状態が10分位続き、30秒ほど僕の話が分かり反応してくれるという奇妙な状態でした。
それが日にちが経つにつれ30分の昏睡状態に30秒の覚醒となり、だんだん眠っている時間がほとんどになりました。
そこで僕は母の寝息や昼間は母の目が光った時を探して話しかけました。

初めは話して応えてくれたのがうなずくになり最後は目の動きで反応してくれました。
僕はそんな母にお母さんありがとう。お母さんよくやったよ。
そしてお母さんは笑ったんだよと言い続けました。

今回母の遺影を作ろうと思い、以前言われていた父の仏壇の引き出しを開けて入っていた母の写真、若い頃から結婚式の、親戚の人たちとの写真、どれも母はきつい顔をして笑っていませんでした。
そんな中で母が2,3年前遺影用の写真を撮りたがっていたので僕もお母さんをよく写しました。
でもお母さんはいつも構えてしまっていい写真が撮れませんでした。
そんな中で引き出しに入っていたのがこの写真。
僕が撮ったのだけど横に怪しげなヘルストロンとかいう健康器具が写っているし横向きなので使えないなと当時の僕は思いボツにした写真でした。
僕はこれはいいと思い部屋に戻ってデータを探したのだけど見つけられないので写真を写真屋さんに持って行ってデータを作ってもらいました。
そしてそれを加工してもらい遺影にしました。
最終的には母が自分で用意したようなものです。

僕はお母さんに最後に笑ったのだよ。勝ったのだよと、何度も何度も繰り返し言いました。
お母さんは目で反応してくれました。
3日目は反応出来なかったけど僕の言った後に涙を流していました。きっと僕の言葉が伝わったのだと思います。
今日は疲れたのでここまでにします。また次回。
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僕のお母さん その1

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写真展を開催します その2

明日からいつもの写真屋さんで写真展を開きます。
写真の展示作業も無事終わりほっとしています。母に報告出来てよかったです。
僕はホスピスにいる母のそばに居たいのでほとんど会場に居ないと思いますが、
よろしかったら会場に置いておくノートに感想、メッセージを書いてくださったらうれしいです。
よろしくお願いいたします。


日時 4月12日水)から4月23日(日)まで、
   18日(火)は休み
   午前10時から午後8時まで、
   日曜日は午後6時まで

場所 高山写真館(JR津田沼駅の改札を出て左に行き、すぐに右にある階段を降りて、千葉方向へ直進30メートル。車道をはさんでJR線路の隣です)
店に高山写真館という看板があります。
他にも写真屋がありますので間違えないようにお願いします。
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写真展を開催します その1

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お母さんの手紙

母が一昨日、聖餐式をホスピスで行っていただいたお礼に手紙を書きました。
お母さんの一番親しい信者の方、先生、車を運転してくださった信者の方に書きました。
僕も手伝って3枚の葉書を書きました。
最初お母さんが葉書をはみ出して葉書の上の方に書こうとするので、もう少し下と僕が言ったのだけど、
お母さんは話を聞かずにテーブルに少し書いてしまったけれど、しっかりと書きました。
弱弱しい文字だけどしっかりと書きました。
お母さん生き生きとしていて楽しそうでした。
よかったです。
お母さんはやることはしっかりやる。さすがだなと思いました。誇らしいです。
僕が宛名と住所を書いて明日投函します。
やることをやれてよかったです。
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聖餐式を行って頂きました

ホスピスにいる母に教会の先生、みなさんが来てくださり、
聖餐式を行って頂きました。ありがたいです。
到着が遅れて先生に何かあったかと心配でしたが、病院が移転していたらしくカーナビに別の場所が表示されたらしいです。
讃美歌「いつくしみ深き」を全員で歌いました。僕も知っていたので歌えました。
それから先生の説教。神様は手を差し延べていてくださる。いてが大事と話された。
それからウエハースとぶどうジュースで儀式を行っていただきました。
ありがたかったです。
母もうれしかったようで喜んで笑顔を見せてくれました。よかったです。
僕は帰りの電車に乗っていて思いました。
「達成感があるな。よくやれた。一つ一つ階段を昇ってお母さんを天国へ送れるかな」
ありがとうございました。
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ホスピス5日目 その2

お母さんがいるホスピスに今日も行きました。
母は今日は元気そうで昼ご飯の後に僕が車椅子を押して病院の外周にある桜の木に行き、お花見をしました。
僕は車椅子を初めて押したのですが何とかなりました。
外は温かくてのんびり桜を眺めました。
それから部屋に戻って窓際に車椅子で座って外を眺めました。
お母さんはとろみをつけたお茶を飲んで、僕はレストランに居るみたい。金持ちのバカンスだと言って母もにこっとしました。
おだやかないい一日でした。
僕は今日が最高の一日だったかな。もうお母さん明日死んでもいいと思いました。
あとはおまけだなと思いました。
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ホスピス5日目 その1

母がホスピスに行き、その後を家の片づけをしました。
洗濯物を干して、乱れていた物を片して、人が来ても困らない程度には片付けられました。
近所のおじいさんからあんずの花が咲いているねと話しかけられて母のことも少し話しました。
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実家を撤収

母が無事ホスピスに入り僕は今日実家を撤収して団地の部屋に戻りました。
4か月間実家に居て母と一緒に生活しました。
大切な経験でした。
今日は朝起きられなくてつらかったけれど、一昨日母が寝込んでいたのに時間になると起き上がって家を出発してホスピスに向かったのを思い出した。
そして僕も起きて仕事に行った。
きっとこの思い出は僕の中で一生覚えていると思う。そしてつらい時に思い出すのだろう。

ホスピスでは僕は昼ご飯の時に行って、お母さんに食事に出たマンゴウをスプーンで食べさせてあげた。
お母さんはスプーンが重いと言った。これには僕は驚いた。
それから教会の人が来てくれて、さらに兄も来た。
一度にいろいろな人が来て僕も疲れたけれど母も疲れたと思う。

それから実家に戻り、荷物を持って団地に帰った。
さみしく疲れてもいたけれど、止まっていてはいけない。そうだKeep Going なのだ。
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母に教わった一期一会

肺がんの母はついにホスピスに行くことになった。
僕は母が家での最後の日を家での思い出を懐かしんで出かけると思っていた。
その前の夜、夕食後母が「頑張ってくれてありがとう」と言ってくれた。
そして翌日の午後1時15分に介護タクシーが家に来ることになった。
でも当日、母は体調が悪くて起き上がれない。ずっとベッドで寝ていた。
1時間おきに僕は様子を聞きに行ったけれど母は起きれなかった。
僕は母が今まで昼間ずっと座っていたお気に入りの椅子をながめながら朝からずっと待っていた。

何があるか分からない。その時を大切にしようと思った。一期一会だな。
やれることをやっておかないと、あらかじめ用意しておく。

そして12時になっても母は起きられない。
人間そんなものなのかな。いくら立派なことを考えていても体には勝てない。

そして出発の15分前、午後1時に母を起こしに行った。
仕方ないな運転手さんとふたりでやれば車に乗せられるだろうと思った。
すると母が今までずっと寝ていたのに、すっと立ち上がった。
「待たせてしまうから」と言った。
そして母は歩き出した。
僕が運転手さんが来るまでまだいいよと言ったら
母は「トイレに行っておく」と言って歩きだした。
僕とお母さん、ゆっくりゆっくりとトイレに歩いて行った。
トイレを終わらせてゴミも捨てて、玄関に行きそこで立って運転手さんを待った。
運転手さんが来て母は車椅子に乗って車に入った。スムーズに乗れた。
そして車は家を出てホスピスへ向かった。
車の中で僕は「立ってくれて助かった。ありがとう」とお母さんに言った。
お母さんは遠い目でにこにことして誇らしげだった。
本当にやる時にやってくれた。
お母さんかっこよかった。

ホスピスはいい雰囲気でスタッフさんも穏やかでよかった。
ずっと入るのを待った甲斐があったと思った。
僕が帰る時にお母さんが「疲れたでしょ」と言ってくれた。
僕はまた明日来るねと言った。
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