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末井昭さん「自殺」を読んでの感想

末井昭さん「自殺」を読みました。
正面から自殺はダメです。やめましょう。と言うのではなくて、
他の道もあるかもしれませんよとやわらかく話してくれていた本でした。
ほがらかな文章に読んでいて温かくなりました。
僕も自分の書いた文章で自分の人柄が現わせたらいいな。
僕はおおらかそうだけど神経質。そんな文章を残せたらいいなと思います。

末井さんは子供の時にお母さんがダイナマイトで心中爆発。
それを20年以上抱え込んでいたのだけれど、篠原勝之さんに話したら「おーすごいじゃないか」と温かく笑ってもらえた。
それで随分助けられたようです。
僕も同じように20年間ブルース・スプリングスティーンの初来日公演にチケットを持っていたのに、
大学病院精神科に入院していてライブに行けなかったことを引きずっていた。
でも僕もいろいろなこころある人に出会い手助けしてもらった。
そしてブルース・スプリングスティーンのファンの集まりで僕が「毎朝2時に起きて新聞屋に行き、また寝てそれから仕事に行くことを3か月も続ければ病気になりますよね」
と話したらみなさん笑ってくれた。僕はそれを大切な出来事として覚えています。

本の中に「緩慢な自殺」というのが終わりの方に出て来る。
僕も自死はしないだろうけれど、これはするかもしれない。
どれだけ長く生きるかより、どう生きるかが大切。僕もそう思った。

表現することは自分の体験をフィクション化することで、そうすることによって心に刺さったトゲが取れていく。
僕の他人事メソッドもまさにそうなのかな。
ブログ、フェイスブックで僕の出来事を書くのもそういうことなのかなと思う。

マイナスの要素もみんなに笑ってもらったりすればプラスに転化出来る。本当にそうだなと思う。
僕もなかなかいい線を行っているのかなとうれしかったり誇らしかったりしました。
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べてぶくろ講演会 末井昭さんをお迎えして

今日は大矢君、早稲田奉仕園というところでべてるの家の本の出版記念講演会を末井昭さんをゲストにお迎えした集まりに参加しました。
末井昭さんは僕の思っていた通りの雰囲気の人だったな。苦労人の温かさを感じたな。
向谷地生良先生の浦河べてるの家の近況紹介から大矢君の通うべてぶくろも紹介されました。大矢君、壇上に上げてもらいべてぶくろの近況を説明しました。

べてぶくろはカオスな所。自慢はミーティングが多いのが自慢の浦河べてるよりもミーティングが多いところと話しました。

そして大矢君、べてぶくろを出版本に載っている「石ころの原理」が起きているところと話しました。
ゴツゴツの石がお互いぶつかり合いながら川を流れていくうちに丸くおおらかな石となり海にたどり着くという話でした。

そこまではよかったのですが、大矢君は生良先生から「他人事メソッド」の話を振られて説明実演したのですがいまひとつでしたね。

そうそう大矢君ちゃんと準備しておかないとダメだよ。せっかくの発表の機会だったのに。最近他人事メソッドがおろそかになってるよ。

それからべてぶくろのメンバーが5,6人の人と自殺会議に参加して、いつもの彼女の言葉で話していたのが大矢君うれしかったようです。言葉をメモしていました。
末井さんの話では、自殺した人は事故のように実はただ行っちゃっただけで、本当は死にたくなかったのではという話がありました。自殺の真理かもしれないです。

それから第3部は本の中で好きな言葉を発表しあいました。大矢君は「とりあえず信じる」「いい加減に信じる」を挙げていましたね。

うん。大矢君あれはよかった。べてるの楽観さへの憧れかな。大矢君もそうなれればいいなあ。

それはそうと大矢君、調子に乗って大矢君の「他人事メソッド」の研究が載っている「レッツ当事者研究3」を買ってくれた人にサインしていましたね。あれはもらった人も困るでしょう。
大矢君「Keep going!」と日付と一緒に書いていました。

あははあれはよかった。でも私ほど上手くないな。流れるように書かなくちゃ。まだまだだね。

それでも用意した10冊か15冊を1冊手違いで残りましたが全部売り切りました。すごいですね。講演会には本の販売が一番売れるのかなと私は思いました。

帰りに大矢君、みんなと帰りました。歩きながら大矢君はお友だちと末井さんの話をしていました。

末井さんは20年かけてつらい話を笑えるように反転させたと言っていた。
僕もそういえば20年以上かかったけれど、ブルース・スプリングスティーンの初来日公演を入院していて観に行かれなかった事があったけれど、それをファンの人たちの集まりで、それは毎朝2時に起きて新聞屋に行ってまた寝て起きて仕事に行くのを3か月もすれば病気になりますよねと話してそれを笑ってもらえたのが救われた。
そう僕が話したら彼女が私はそれが大変だっただろうと思いますと言ってくれた。それも僕はうれしかったのだ。

何だか分かりませんがみんな気分が高揚してハイな気分で帰って行きました。
よかった。よかった。


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顕現日礼拝

前回の礼拝レポートが教会のみなさんに好評だったのでもう一度。
今日1月6日は顕現日。おめでたい日。僕のお母さんの誕生日でもある。
お母さんはおめでたい日に生まれたのだな、顕現日の話をお母さんにしたら喜んだだろうな。残念だ。

今日は大先生の説教。マタイによる福音書2章
僕は4つの福音書をやっと読み終えて、もう一度読み返しているので昨日読んだ箇所だったのでよく覚えていた。
顕現とははっきりと姿を現すことらしい。
僕は何となく聖書を読んでいるので、イエスさまが生まれたのにあまりめでたく書いていないなと何となく思っていた。
それが今日の説教で分かって来た。

当時の王はイエスさまが生まれたのを恐れた。自分の地位がおびやかされると。
私たちも誰かと比べている。誰か軽蔑する人を持っている。あの人よりは自分はましだと。
それが人間。人はねたみ、そねみを持って生きている。

本当は私たちはクリスマスが嫌なのだ。私たちは人を軽蔑し軽蔑される生き方をしている。
そこにイエスさまが来られると困る。自分たちの罪がはっきりしてしまう。
人びとは最初イエスさまの誕生を拒否した。

聖書を読むと決してクリスマスが喜ばれていない。私たちもイエスさま無しの方がいい。でも神さまは星を輝かせてイエスさまの誕生を教えてくださった。
イエスさまを探しに来た学者たちは最初道を誤った。でもイエスさまに会って、帰りには別の正しい道を通って帰ったのだ。
神さまはそんな私たちを見捨てないで最後まで導いてくれた。
この時に初めて私たちにクリスマスが喜びとなった。

私たちは心の中で拒絶している。そういう私たちのためにイエスさまは来てくれた。
私たちも人々とともに生きましょう。
人をおとしめて自分を立てるのではなくて、一緒に考えて信じるのです。

僕は今日の顕現日で初めてクリスマスのありがたさや喜びがわかったのかもしれない。
その日が毎年お母さんの誕生日。お母さんらしいな。天国でお母さんに話すことがまたひとつ増えた。
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