自分の周りの空を写します
北東気流の街に生まれて
当事者研究の暴力性
僕が居場所で大事にされていないと感じる。自分の話を聞いてもらえないのが不満だと話しました。
それについて話し合ったら「自分のことを聞いてもらえないと僕が感じている」ことについて研究しましょうと成りました。
それで僕はよし。研究しようと思いました。
でも翌日に成って何かおかしいと感じました。
「自分の話を聞いてもらえないと僕が感じる」のではなくて「実際に自分の話を聞いてもらえていない」のだと思いました。
僕はこれは危険。
1人の考えていることを強制的に考えないようにさせると思います。
研究の前提を強制的に決められてしまう。
これは当事者研究の暴力だと思いました。
そして僕は当事者研究を上手くまとめようと考えるので研究の前提を鵜呑みにしてしまう。
研究の行き着く先を初めから決められてしまう。危ないなと思いました。
後日に僕が信頼している診療所のソーシャルワーカーさんにこの事を話したら僕の話を信用してくれて「自分の話を聞いてもらえない時に僕がどうするか」の研究をしましょうとしてもらいました。
僕はうれしかったです。
それから居場所に見学に来ている人がいて、僕はその人はみんなに自分の話を聞いてもらっているように見えていいなと思っている人にみんなと接していてどう感じているか?どうしたら自分の話を聞いてもらえるかインタビューしようと成りました。
そのソーシャルワーカーさんとの面談の後にちょうどその人を見かけたのでさっそく聞いてみました。
すると「私は相手の話を聞く時間の方が自分の話をする時間よりも圧倒的に長いです」と応えてもらいました。
僕はそうか。僕は自分の話を聞いてもらえないからと思って相手の話も聞いていなかったと思い当たりました。
そういうことで僕の「自分の話を聞いてもらえない時に僕がどうするか」の研究を進めています。
これから更にインタビューをしていきデータを取っていきます。
当事者研究は万能のようでいて使い方を間違えると相手の話を封じ込める暴力に成るので危ないところがあるのだと僕は思いました。
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