かねやんの亜細亜探訪

さすらうサラリーマンが、亜細亜のこと、ロックのこと、その他いろいろ書いてみたいと思ってますが、どうなることやら。

ならでぶら 明日香編その8 川原寺跡

2009年04月13日 | Nara ( Japan )


橘寺から、その向いにある川原寺跡に向かった。これは、橘寺から臨んだものだが、道路の向こう側、瓦屋根の家並みの手前が、川原寺跡だ。



道路まで行くと、目の前には、原っぱと礎石・基壇の跡が広がる。またまた説明板があったので、紹介しよう。

”川原寺は、法名を弘福寺ともいわれている。その創建年代については不明であるが、『日本書記』天武天皇2年3月の条に川原寺で経を写すという記事があることや、伽藍配置や瓦の文様が天智天皇に関連する大津宮の南滋賀廃寺や大宰府の観世音寺と類似することから、天智天皇の時代(662~671)に斉明天皇の冥福を祈って建てられたものと考えられる。
昭和32・33年の発掘調査の結果、中金堂(現弘福寺の場所)の前には、、東に塔、西に西金堂が建ち、中門から出た回廊がこれらを囲むようにして中金堂へとつながっていることが判明した。また、中金堂の北には講堂があり、これを取り囲むように僧房が3面にある。川原寺で使われていた複弁八弁蓮華文軒丸瓦は川原式軒瓦と呼ばれ、天武天皇の時代には近畿・東海地域の古代寺院に多くみられ、壬申の乱で功績のあった氏族の寺院と関係のあったものと考えられている。
現在では弘福寺境内にある瑪瑙(白大理石)の礎石と公園内の建物復元基壇が当時を忍ばせている。”

礎石、基壇も大きく、当時相当大きいお寺であったことがわかる。礎石には、それぞれ小さな穴が二つづつあいていた。



今の川原寺は、こんな感じで、お寺なのか、和食レストランなのかわからない。



川原寺跡から、基壇越しに、橘寺を臨んだところ。
当時の、大寺が林立する光景を想像できるか?
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ならでぶら 明日香編その7... | トップ | ならでぶら 明日香編その9... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。