壷の碑から多賀城政庁跡に向かう。途中に発掘中の場所があったが、南北大路跡とのこと。壷の碑を南端とした一帯が、多賀城内になるが、芭蕉さんが訪れたころは、既に土の中に埋もれていたはずだ。壷の碑自体も江戸時代に見つかったものだ。
さらに進むと、多賀城政庁跡が現れる。大和朝廷が、陸奥・出羽を治め、蝦夷対策の拠点としていた場所だ。手前に復元模型が設置されていたが、昭和40年代のかなり荒っぽい発掘だったらしく、東北歴史博物館の説明によると、建物配置は、この模型とはちょっと違っており、見直し中とのことであった。
大きな広場で、立派な施設であったろうことが、感じられる。約100m四方。中心にある建物の礎石と、取り囲む築地の塀、脇殿の礎石などが残る。ちなみに、多賀城全体は、900m四方であったという。
博物館で、政庁の復元図の絵葉書があった。遠くに佇んでいるのは、私同様、一人で散策していた人。
ちょっと脇に、佐貫地区があり、ここでも、建物の跡が多く発掘されている。礎石群の他、一画に発掘の様子をそのまま展示してある。