豊臣秀吉の妻たちのこと(4)

秀吉は、1598(慶長3)年8月16日、徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家の四大老に看護されて死んだ。63歳だった。「秀頼のこと、真に頼みます。名残惜しく思います。」と書いた。

秀頼と茶々は大坂城へ移る(1599年正月)。秀吉の正妻である北政所は大坂城を出て京都へ移った。

茶々が秀吉の側室となったばかりのときに会った北政所の冷たい視線を、今も心に捺されてあった。そのときの恥と怒りはまざまざと思い出すことができた。あれから11年たっている。

茶々が頼りにしていた前田利家も他界した。以後、58歳の徳川家康の一人舞台になった。伏見城にあって自分の思うように諸大名に号令した。秀頼の補佐というより実力者。
茶々は家康という人物が嫌いだった。

慶長5年(1600)。関ヶ原の戦い。茶々に残された唯一の仕事は、秀頼を天下の権力者にすることだった。しかし信頼できる武将は次々に倒れた。そして石田三成、その他は大坂の街を引き回し、京の三条河原にさらされた。

茶々にとって、父浅井長政、母お市の方、義父柴田勝家、叔父織田信長、いずれも非業の死。そして幼い鶴松の死、秀吉の死を体験した。しかし愛息秀頼は生かさなければならぬと思った。
しかし優秀な指揮者がいない。

茶々は、秀頼ともども多少わがままのきく単なる大坂城の寄食者。対する徳川家康は武士のトップに位置づく征夷大将軍。

秀頼11歳になった。徳川秀忠の娘だった千姫(せんひめ)と婚姻。 ※ 千姫は秀忠と小督(おごう。お市の娘であり茶々の妹)の娘。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 豊臣秀吉の妻... 豊臣秀吉の妻... »