豊臣秀吉の妻たちのこと(5)

このシリーズの締めとして、秀吉の妻ではなく、千姫について記してみよう。この姫は、記した通り、徳川秀忠(家康に次ぐ第2代目の将軍)の娘であり、秀頼の妻だった。 豊臣秀吉は側室・茶々(淀殿)との間に生まれた豊臣秀頼を後継者として、1598年、2歳の千姫と、6歳の豊臣秀頼とを婚約させた直後、伏見城で亡くなる。もちろん、自分亡き後は徳川家を秀頼のスポンサーにすることがその意味だった。 このままごとフレ . . . 本文を読む
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豊臣秀吉の妻たちのこと(4)

秀吉は、1598(慶長3)年8月16日、徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家の四大老に看護されて死んだ。63歳だった。「秀頼のこと、真に頼みます。名残惜しく思います。」と書いた。 秀頼と茶々は大坂城へ移る(1599年正月)。秀吉の正妻である北政所は大坂城を出て京都へ移った。 茶々が秀吉の側室となったばかりのときに会った北政所の冷たい視線を、今も心に捺されてあった。そのときの恥と怒りはまざま . . . 本文を読む
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豊臣秀吉の妻たちのこと(3)

天正16年(1588)。茶々、懐妊。53歳の秀吉、初めて子をつくることができた。鶴松誕生。 「城が欲しい」と秀吉に言った。若い女主人のための小さい城ができた。淀城。この城の女主人なので茶々は「淀君」と言われる。 秀吉は連日合戦だ。しかし彼は愛妾茶々に毎日のように便りをくれた。そして彼女はこの主人を、正妻の北政所からも、多くの側室からも離したかった。しかし幼い鶴松は体が弱く常に病弱だった。祈祷 . . . 本文を読む
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400年前から今の世界へ

豊臣家が徳川家康の巧妙な策略で滅ぼされる動きについて、はひとまず措いておいて、今の世界について誰もが思うことを一言。400年前から今の世界の問題にひとこと。 ウクライナでのロシアの侵攻策をどう抑えるか、ロシア軍をどう撃退するか、は専らウクライナの力に委ねられているのだろうか。いわゆる西側は物質的(軍需的なものも含めて)支援を取り組むことに限定されるのだろうか。 先日来、ロシアでのある人たちの動 . . . 本文を読む
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豊臣秀吉の妻たちのこと(2)

話は前後するが、信長の妹に、当時のミス日本といってもいい美女がいた。お市(おいち)という。この人は最初浅井長政(信長の家臣)の妻となり、3人の娘を産む。茶々、初、江(ごう)である。そして浅井は信長と闘い敗れる。(1570 姉川の戦い)。この後、36歳のお市は信長の家臣の柴田勝家の妻になる。勝家61歳。 賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)が起こる(1583年4月)、今の滋賀県長浜市、賤ヶ岳付近で起 . . . 本文を読む
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豊臣秀吉の妻たちのこと(1)

6月11日のこのサイトで、徳川家康の妻たちのことについて記した。先日来、井上靖という作家が書いた長編小説「淀どの日記」、大判サイズで450ページに及ぶ小説だったが、1週間かかって読み終えた。 秀吉という人は、いわば人気投票をすればトップスリーにはいるのではないか。信長や家康と違って、いわば「名もなき一人の庶民」の生まれで、最後は日本のトップに躍り出ることができた人だから、一般受けするのではないか。 . . . 本文を読む
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熊、駆除から保護へ。そして最近の人里への侵入の動き

最近、札幌で話題になっている熊はヒグマという。これが人里近くに出没し出した。登下校の子どもに危害を及ぼす怖れがあるので父母が同伴するという活動もある。 私の住んでいる地域は西区で、この地区で熊が動き出したというニュースはまだないが、時間の問題ではないだろうか。 熊をめぐる公的な態度はこうだ。 「かつて北海道では、昭和41年から行われていた残雪期のヒグマの駆除事業『春グマ駆除』により、積極的なヒ . . . 本文を読む
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マイナンバーカード?

マイナーバーカードを、政府はその普及を盛んに言っている。私なども、褒賞金が入ると言うことで登録?はした。そして例の保険証云々が言われているが、通院している病院からマイナーカード関係のことは全く言われないし、今まで通りの紙の保険証を提示して何らの支障もない。これから政府はなんだかんだと言ってくるのかも知れないが、今のところどうということはない。 政府の本当の狙いは、巷間いわれるように国民一人一人の . . . 本文を読む
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北京の風景の写真展を通して得た30年前のことなど

今朝の道新で、中国・北京の魯迅博物館で専属カメラマンを務める帯広出身の田中政道さんという人の写真展が行われていることを知って、この鑑賞に行った。というより、この写真展の会場が札幌市資料館ギャラリーというのが強い刺激になったからだ。 私たちがフリースクールをオープンさせたのが1993年で今年はちょうど30年目に当たるのだが、97年から年に一度校外で美術展を開催しようという方針を決めた。これを推進した . . . 本文を読む
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保育業務に従事する人たちがいなくなってきた!

少子化問題を考えていく上で、実に多様なテーマが検討課題になっていく。これまでも何度も私的意見を含め、政治関係で言われる少子化対策等についても触れてきた。 「子ども真ん中」など、妙に強調される場面があるが、例えば、昨日のニュース系の番組で保育業務に従事する人たちがどんどん減少していると報じられている。 労働条件が悪いこと(低賃金、勤務時間、退職・休職の制度的保障がない、など)、こういうことは私自身 . . . 本文を読む
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