明日は関東大震災90年目

1923年(大正12年)9月1日(土)のほぼ正午関東地方を震度7(マグニチュード7.9)の大地震が襲った。これによる火災その他で死者は10万人を超えている。今日NHKテレビがこれに関連することを報じていた。この地方は100年から200年の間隔でプレート移動などによって大地震に見舞われてきた。 . . . 本文を読む
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軽自動車税の増税を迫るアメリカ

今朝のWebニュースで、政府は軽自動車税のアップを検討していることを知った。これは国内の自動車業界ではなくアメリカからの圧力であるとのこと。つまり、米国自動車を日本に売り込むためには、少しでも日本車との価格差を縮めなければならない、そのためには税金を上げることで軽自動車価格をアップさせることも重要な方法だというのである。 . . . 本文を読む
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小泉純一郎の「原発ゼロ」

これは今日の毎日新聞の「風知草」というエッセイ風記事の見出しである。書いたのは山田孝男という記者(?)。 4月、経団連企業トップと参加したシンポジウムで原発維持を求められた小泉純一郎は「ダメだ」と一喝。小泉はその後ヨーロッパ各地を視察して帰国し「今ゼロという方針を打ち出さないと将来ゼロにするのは難しいんだよ。野党はみんなゼロに賛成だ。総理が決断すりゃできる。あとは知恵者が知惠を出す」。 . . . 本文を読む
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「自由主義」への歯止めは必要なのでは

TPPで、ある国が金融自由化に反対しているのに日本などは自由化を迫る方針であり、逆に日本は農製品など5品目の自由化はできない旨主張するという。 . . . 本文を読む
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人間はまだ「原発」を運転・操作・管理する能力を全くもっていない

福島第一原発で発生した地上タンクの高濃度汚染水水漏れ事故について、この処理計画は崖っぷちに立たされていると、毎日新聞は報じている(8/22 朝刊)。原子力規制委員会は国際評価尺度のレベル3に該当するとしているが、これからの展開はどういうことになるか分からないらしい。 . . . 本文を読む
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「プログラム法案」って?

今日の各紙は「プログラム法案」を報じている。「社会保障改革」関連の今後の計画案のことである。要するに、社会保障に関連する国民負担を今後数年間にどういうように増大させていこうか、という内容である。 . . . 本文を読む
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子どもを「無菌状態」に置くことを主張するのか

昨日の続き。映画だが、「風立ちぬ」での喫煙シーン、「はだしのゲン」での「衝撃的」シーンなどを問題にする人や団体がいる。理屈は、子どもに悪影響を与えるから、というのだ。今、子どもたちはそんな映画のシーンに影響を受けるような位置にないのではないか。それらの映画を観る子どもたちはむしろ「良識的常識的平均的」な子どもたちである。 . . . 本文を読む
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「風立ちぬ」とタバコ、「はだしのゲン」の衝撃的映像

この映画で喫煙シーンが多くあって、少年に対して悪影響があるという批判が、禁煙団体などから寄せられているという。逆に、喫煙は自由だとする団体から問題はない、との意見があるとのこと。この映画については8月6日のブログでも触れてみた。分かりにくい、説明不足、しかし印象は強い、まあだいたいこういう感想だった。 喫煙シーンなどについては全くといっていいほど気にならなかった。昔のストーリーの映画で喫煙シーンがあってもなんらの違和感もない。 . . . 本文を読む
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戦争と平和を考える8月(4)- この日をマスコミ各紙はどう書いたか

この8月15日、私自身でいえばこれまでにない思いをもって過ごした。その理由は自身よく分からない。安倍首相が「侵略の定義は決まっていない」といったこともあるだろうし、これに関連して、今日の戦没者追悼式であの戦争に関して「加害と反省」に触れず、ただ「歴史に謙虚に向き合い、学ぶべき教訓を深く胸に刻む」とだけだけ言ったことへの疑問でもあるだろうか。安倍さんのいう「歴史」認識がどういうものか、「教訓」が何か、はっきりとは分からない。 . . . 本文を読む
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戦争と平和を考える8月(3)-「敗戦」の思い出と映画「少年H」

今日8月15日はいうまでもなく「終戦・敗戦記念日」である。68年前のこの日、私は和寒村の三和国民小学校の2年生だった。 昭和17年に父が中国大陸で戦死し、母の実家の同村に「引き揚げ」て来た。昭和17年10月4日が父の死亡日である。名誉の戦死とか「英霊の遺族」とか言われただろうが(このことについては全く記憶がない)、記憶にあるのは何日間も母が悲しみで泣き続けていたことだ。昭和18年3月末に、母の父母の迎えを受けて新潟から和寒村にやってきた。冷たい津軽海峡、和寒の駅から三和の母の実家までの馬そりなど、かすかな思い出がある。 「父のカタキを討つのだ」などと言われていたこともかすかにある。 . . . 本文を読む
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