豊臣秀吉の妻たちのこと(3)

天正16年(1588)。茶々、懐妊。53歳の秀吉、初めて子をつくることができた。鶴松誕生。
「城が欲しい」と秀吉に言った。若い女主人のための小さい城ができた。淀城。この城の女主人なので茶々は「淀君」と言われる。

秀吉は連日合戦だ。しかし彼は愛妾茶々に毎日のように便りをくれた。そして彼女はこの主人を、正妻の北政所からも、多くの側室からも離したかった。しかし幼い鶴松は体が弱く常に病弱だった。祈祷で健康を取り戻すことはできず、三歳を一期として他界した。愛しい愛児を失った老いた夫は「近く朝鮮を征服する」と結局は墓穴を掘る政策を進めることになる。

そして茶々はまた妊娠した。生まれた男子は後の秀頼であるが、幼名は拾ひ(ひろい)と言った。先の鶴松が棄(すて)ですぐ死んだので、拾ひなら元気で育つだろうという気持ちだった。秀吉58歳のときの子だった。
(たくさん側室がいても子どもに恵まれなかったのに、50歳台で二人も子どもが生まれたのは、本当は秀吉の子どもではないのでは、という疑問が出ているのは当然なのかも知れない。茶々にとっては秀吉はむしろ親の仇でもある。このタネを次の支配者にしたくないと思っただろう、と。)

朝鮮出兵で、九州に出張がちの秀吉は、茶々に常に便りをした。「ひろひにちち(乳)をよくよくのませ候へ」など。乳をのんでいればつつがなく育っていくものと思い込んでいた。

そして秀吉は自分の後継者として甥の秀次を関白にした。文禄4年(1595)、お拾ひは三歳。後継者と決めてきた秀次一家は、今や目障りになった。秀次とその一族30数名は皆三条河原で処刑された。

秀吉も病気がち。文禄5年(1596)正月23日、秀吉は自分及びお拾ひに対する忠誠を諸大名に誓わせた。「いかなる事態に立ち至ろうとお拾ひに対する忠誠は変わらぬ」と。この種の誓約を、秀吉は有力大名たちに、何度もしつこく行わせた。
お拾ひは、夏の初めに大坂城に移ることになった。この城の主。12月17日に秀頼と改名。

1598年、秀吉最後の年。この年、いわゆる「醍醐の花見」と、今に至るまで語り伝えられた大々的なイベントを行う。
そして死期近づいた秀吉は、例によって有力諸大名たちに「秀頼のことくれぐれも頼む。ワシの後継者だ」としつこく誓わせた。「分かった、分かった。しつこいね」と心の中では誰もが思ったろうが、いわれるように誓約書にサインし血判を捺した。
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