小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

清河八郎の最期 その6

2011-12-25 23:11:24 | 小説
最初の建白書を奉呈するにあたっては、清河八郎は6人の浪士を選んでいた。河野音次郎、西恭助、草野剛三、和田理一郎、森土鉞四郎、宇都宮左衛門で、草野(のちの中村維隆)らの回顧談によれば、八郎は彼ら6人に、もし受理されなければ生きて帰るな、と言ったらしい。
 すんなりと受理されるとは考えていなかったからである。
 案の定、まず幕府に提出するのが正規の順序であろうと、いったんは受理を拒否されている。しかし決死の覚悟の6人に気圧されて、学習院に詰めていた国事参政が渋々受け取ってしまうのであった。
 この結果、2月29日、劇的な事態が起きた。
勅宣と関白からの達文が届くのである。
 ここでも大川周明の筆をかりる。
「…重大なる攘夷の勅諚を、直接浪士に賜はると云ふことは、破格非常のことであるから、之を聞いた幕府の吃驚は察するに余りある。のみならず関白の達文は、天下の政事に関して草莽の意見を建白する路を開いたものである。されば八郎は、此の勅諚さへ拝領すれば、最早幕府の覊束を受けず、独立独行して攘夷が出来ると云ふので、其の喜び言はん方なく、即夜新徳寺に於て盛大なる祝宴を開いた」
 これはもう、八郎に有頂天になるなというほうが無理な情況になったというしかない。
 2月末、八郎は二度目の建白書を書く。
 趣旨は関東で攘夷の先鋒を務めさせて欲しいというものだった。浪士組の東下を願い出たわけである。
 月が変わって3月3日、その八郎の思惑通りの命令が関白より下る。
 ただし今度は浪人奉行鵜殿鳩翁と同取締役山岡鉄太郎連名宛の命であった。
 いわゆる生麦事件がこじれていた。横浜へイギリス軍艦が渡来しており、いつ戦端を開くかわからない。であるから速やかに浪士を東下させ、「粉骨砕身可励忠誠候也」という命令だった。
 さて、ここまでは八郎の思うとおりに事が運んでいる。しかし、そのことが八郎の命運を縮めることになるのだが、もとより八郎はそんなことは知るよしがない。 


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