小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

清河八郎の最期 その1

2011-12-08 22:31:09 | 小説
 お蓮の死んだのは文久2年閏8月7日であった。まさにその頃、八郎はお蓮や獄中の同志を救うために、彼らの釈放嘆願書を書いていた。政事総裁職に就任した松平慶永(春嶽)宛の上書である。
 安政の大獄で幽閉されていた尊攘派に同情的で、大赦に向けて動いていた春嶽のふところに飛び込もうというわけである。むろん「殺人犯」という自分の罪も帳消しにしたいのであった。逃避行を続けながらの尊攘運動には、どうしても限界があったからだ。
「…今や大赦独り在上に行はれて在下に達せざるは、亦豈無偏無党の道ならんや。故に方今の時天下の人心を安んぜんと欲せば、疾く大赦を行ふに若くはなし…」
 上書の中にそう書いた。
 その上書は、山岡鉄舟と土佐の間崎滄浪を経由して春嶽のもとに届いた。
 結果としては、嘆願は功を奏した。9月下旬には弟熊三郎、池田・石坂両同志は出獄(もっとも仮出獄)したという手紙を10月4日付で山岡鉄舟が八郎に送っている。
 あともう少しだったのにと思わずにいられないが、八郎はしかし愛妻お蓮を救出することはできなかったのであった。けれども、この夫婦は8カ月後には、あの世で再会することになる。
 清川八郎が江戸は麻布一ノ橋近くの路上で暗殺されるのは、文久3年4月13日であった。お蓮の死から数えて8ヶ月余、その短い期間に八郎は、清河八郎という尊攘思想の光彩を放った。
 文久2年から文久3年にかけて時代そのものが閃光を放って変転していた。
 文久2年1月には老中安藤信正が坂下門外で襲われ、2月には和宮降嫁、4月には島津久光の挙兵上京と寺田屋事件。8月には生麦事件が起き、将軍家茂は攘夷を奉答。閏8月には松平容保が京都守護職についている。
 幕吏から追われていた清河八郎は、青天白日の身となるばかりではなく、こんどは幕府から「有名の英士」で「文武兼備、尽忠報国の志厚く」とお墨付きをもらうのであった。 
 


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