小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

お蓮の死 その1

2011-12-02 19:35:45 | 小説
 揚屋(あがりや)というのは伝馬町牢屋敷内の獄舎のひとつである。
総坪数2618坪の伝馬町牢屋敷には東牢と西牢があり、大牢、二間牢、揚屋、奥揚屋、揚座敷と呼ばれる獄舎があった。身分によって入る獄舎は違ったのである。西牢の通路の反対側には拷問蔵があった。
 女性は身分に関係なく西の揚屋と決まっていたから、お蓮は西牢に入れられた。
 お蓮の獄中生活は1年3カ月続く。24歳の手弱女の耐えに耐えた日数は450日を超えたのであった。
 八郎の事件に連座して、お蓮と同じく入牢していた同志のうち4人は、お蓮より早く牢死している。
 すなわち、ともに35歳の笠井伊蔵、北有馬太郎、45歳の西川練造、54歳の嵩(かさみ)春斎らである。春斎は篆刻家だったが、八郎をかくまったため逮捕され、入牢後数日で死んでいる。逃亡を諦めかけ、自害しようとした八郎を諌めた人物だ。
4人とも文久元年中に獄死したのであった。しかしお蓮は文久2年閏8月までは生きた。
 閏8月6日、お蓮は伝馬町牢屋敷から下谷の庄内藩邸(中屋敷)の牢に移された。麻疹に感染したからである。はしかのことらしいが、当時流行っていて、療養中は庄内藩預かりとなったのである。
 ところが翌7日早朝、お蓮は冷たくなっていた。獄中生活の劣悪な環境が感染症を重篤なものにしていたと考えられなくもないが、この急変はいささか不自然である。
 麻疹の薬として毒を盛られたという説がある。しょせん庄内藩にとってはお蓮は厄介者でしかなかった。まして公儀のお尋ね者清河八郎の妻である。毒殺をためらう理由はなかった。毒殺の噂は当時、公然とささやかれていたらしい。
 七夕の夜、お蓮の夢を見た八郎は漢詩を作って、その詩の最後をこう結んでいた。
「ああ汝とがむることなかれ、我 誓いあり」
 きっと救出すると誓うから我をとがめるな、と詠ったのである。だが、その誓いは実現しなかった。 


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