小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

お蓮の死 その2

2011-12-04 17:16:00 | 小説
 お蓮の死ぬ陰暦閏8月の前の月はやはり8月だが、その24日、清河八郎は京都から江戸に帰っていた。山岡鉄舟と松岡万に会って、このときお蓮の消息を聞いている。
 4人の同志は牢死したけれど、獄中のお蓮と弟の熊三郎、それに同志の池田徳太郎と石坂周造は無事だと知った。しかも池田と石坂は牢名主となっており、獄外との連絡も取れていると聞かされたから、この時点では八郎はお蓮についてもいくらか安堵の気持ちを抱いたと思われる。
 ところで獄外との連絡はなぜ可能となったのか。
 池田の存在が大きい。池田の人柄に心服した牢番がいたのである。この牢番を通じて、池田は水野行蔵と連絡を取り、金子を差し入れさせたのであった。その金の一部をお蓮や熊三郎にも届けさせたのである。地獄の沙汰も金次第というけれど、たいそうな金額が使われている。
 お蓮が水野行蔵に直接に金子を無心する手紙が残されているが、手紙のやり取りは原則禁止だから、こうした連絡そのものにも金がかかったはずである。
お蓮の手紙の一節。
「…私事も入牢いたし候せつも御牢内へは、みやげも、もち参らず、とうはく(当惑)いたし居候所、徳太郎様よりいろいろ御しんぱへ(心配)被下、其御かげ様にて牢内も少々はらぐ(楽)にも相成。今日までしのぎおり候得共、かねて御ぞんじ様の事も御座候哉、牢内は金子なければ、らぐも出来不申候間、金子御むしん申上たく…」
 牢に入るのに、金という土産が必要で、それがなければ「らぐ」ができない、というのが哀れである。
 熊三郎が父に宛てた手紙からも事情がよくわかる。
「(水野は)たびたび御心づけの金子お送り下されお陰にて命をひろい助かり申し候。誠に有難き次第、この上もなき親切の御方に御座候。お蓮様の方へもいろいろ御心添え下され誠に有難き儀に存じ奉り候。頼り致し候は上野様ご一人に御座候」 
「上野様」というのは水野の本名である。元の名は上野禎蔵、庄内藩士で文久2年に目付の沢左近将監の家来だったらしいが、後に庄内藩によって投獄され、獄中で毒殺されている。お蓮と似たような最期をとげているのだ。
 先にたいそうな金額が使われていると書いたのは、八郎の実家から水野に返却した金を含め、3カ月に253両余りもかかっているからである。もっともそのうち100両は町奉行へのいわゆる賄賂であった。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。