小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

清河八郎の最期 その2

2011-12-10 21:16:29 | 小説
 清河八郎の赦免が確定するのは、文久3年正月のことである。くどいようだが、その3ヶ月後には彼はこの世を去る。彼が公然と清河八郎であったのは、正月から4月までのたった4ヶ月なのだ。
 実際、前年の暮に彼が幕府の「浪士取扱」の客分として招聘される話がまとまったとき、殺人犯としての「清河八郎」では都合が悪いという意見も閣老の中にはあった。彼の変名「大谷雄蔵」を名乗らせようという姑息な案も出されていたのだった。
 正月18日、清河八郎は庄内藩留守居黒川一郎の立会で町奉行所に先の無礼人斬殺を届け出ている。幕府の指示によるものだから、出来レースのようなものだが、奉行浅野備前守は即座に赦免とし、庄内藩には「…この上は召捕候には及ばす候…」と布告した。
 かくて文久2年という暗闇の世界から一気に陽光の世界に躍り出たのが文久3年だった。おそらく、奈落から抜け出した舞台の眩しさが彼の命運を縮めたのである。
 急激に明るい場所に出すぎたのだ。自己陶酔にも似た高揚感に八郎はとらわれたはずである。そして幕府くみしやすしと内心甘く見たはずである。そのことが彼の油断になったのではないか。だが、まだ彼の暗殺を語るときではない。
 さて、八郎はなぜ幕府の「浪士取扱」客分になりえたか。彼の文章力が大きく作用していると思われる。
 文久2年11月に八郎は春嶽あてに二度目の上書を献じていた。
 攘夷の断行と大赦令の発布と人材の糾合を説いた、いわゆる『急務三策』である。格調の高い、堂々とした文章であった。八郎はいわばプレゼンテーションの名人であった。人材の糾合というのが、つまり浪士の募集であり「浪士取扱」につながるのである。
『急務三策』中の一節。
「それ草莽の身を殺し族を棄て、四方に周旋するもの、皆な公ありて私なし、忠誠以て国家に報ずるのみ。(略)それ非常の変に処する者は必ず非常の士を用ふ。故によく非常の大功を成す。(略)願くは執事疾く度外の令を施し以て天下非常の士を収めんことを」
 春嶽は八郎の文章に心を動かされたはずである。その春嶽のもとに関白からも浪士募集の命が下されたと報告が入る。関白に浪士募集案を持ち込んだのは、経緯は省くが池田徳太郎と石坂周造である。八郎が春嶽に上書したことを知ったふたりが、八郎の援護射撃をしたのであった。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。