小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

清河八郎の最期 その3

2011-12-14 21:18:17 | 小説
春嶽は浪士取扱の任に松平主税助を採用した。家康の6男忠輝の後裔である彼は、やはり浪士利用を建白していたから、適任とみなされたのであろう。幕府内には浪士募集に反対するものも多かったのである。
 その松平主税助が町奉行に差出した文書に、こうある。
「出羽荘内 清河八郎。右者有名の英士にて、文武兼備、尽忠報国の志厚く候間御触出し御趣意も有之、私方へ引取置、他日の御用に相立申度、此段奉伺候」
 さて、ここに「尽忠報国」というキーワードがひそんでいる。
 松浦玲氏は著書『新選組』(岩波新書)の冒頭部分(6ページ)で、こう述べていた。
「『尽忠報国』は後に新選組の中心スローガンとなり、近藤勇や土方歳三の愛用タームだった。それが実は幕府の達文(たっしぶん)に書込まれ、その志を持つことが旧悪免除の取引条件になっていた。なにかカラクリがある」
 カラクリもなにも「尽忠報国」はもともと清河八郎のスローガンであった。前に引用した『急務三策』の「皆な公あって私なし、忠誠以て国家に報ずるのみ」も熟語にすれば尽忠報国である。「報国の臣」とか「報国の盟」というのも八郎のいわば口癖のようなものだった。
 尽忠報国といえば、中国南宋の武将岳飛(がくひ)は、その言葉を背に刺青していた、という。もとよりその故事を幕末当時の教養人は共有していたはずだが、この時期にその成語を流行らせる契機は八郎にあったのではないかと私は思う。
 ちなみに岳飛ももとは豪農の出身で、人気が出ると危険視されて謀殺された。八郎もこの点は岳飛に似ているのだ。
 ところで松浦玲氏も書いているが、清河八郎が「報国」というとき、その「国」は日本国である。出羽の国でもなく、幕府でもない。
 しかし新選組は、あるいは近藤勇や土方歳三は、「国」を幕府に縮小して、幕府の爪牙となって功名を急いだ。松浦氏が概ねそのように述べている(前掲書106ページ)。
 まったく同感である。浪士組のストレートな延長線上に新選組があるのではない。


最新の画像もっと見る

7 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
コメント (森重和雄)
2011-12-15 00:06:34
鏡川先生さま

こんにちは!
「 しかし新選組は、あるいは近藤勇や土方歳三は、「国」を幕府に縮小して、幕府の爪牙となって功名を急いだ。」というのは、違うように僕は思います。
彼らに本当に「日本」という国家イメージがあったかどうかは、疑問です。
むしろ徳川将軍家=日本国ではないでしょうか?
返信する
松浦説 (鏡川伊一郎)
2011-12-15 05:48:07
森重先生、コメントありがとうございます。ところで松浦説では、以下のようになるのです。
「永倉が自分の手記を『浪士文久報告記事」と名付けたとき『報国』の国は日本国だった。しかし新選組は尽忠報国を唱え続けているけれども、その国は日本国ではなくなった。山南敬助はそのことに絶望して死んだのだと…」
森重説に私も賛成ですよ。しかし松浦さんは新選組にやさしくて、すくなくとも初期の新選組は思想集団だったとみなすのです。ご存知のとおり新選組嫌いの私は彼らを思想集団とはみなしません。
返信する
松浦説 (森重和雄)
2011-12-15 14:58:01
鏡川さま

こんにちは!
松浦先生の、少なくとも初期の新選組は思想集団だったとみなすのは、新選組贔屓のロマンチックな幻想ですよね。(笑)
返信する
Unknown (  ノブ)
2011-12-15 20:36:40
 新撰組の当初は、いずれにしても、攘夷で仲間(同朋)を守るくらいですよね。(これが日本国か日本人かという定義は、明治以後のことでは。)
 彼等は、一旗揚げたいという気持ちと、天皇を中心に攘夷で仲間(同朋)を守る。これが、端緒ですよ。
 だが、徐々に目先の目標に変わってゆき、天皇を、幕府を守ることが攘夷でもあると変化。
 そして、幕府内で少し重きを置かれ出世(直参にまで)行くと、幕府に殉じた。
 それは、無理もない。一旗揚げると言う気持ちは、武士になることだったのだから、攘夷は霞んで、幕府の侍に価値を見出した。
 慶喜が勝てば、幕府が日本国でと言っても
間違いないですよね。新撰組の論議は、若者の上昇志向の右、左。
 では、清河八郎が生きていたら、幕末、どのような動きをしたか??
 四国戦争と薩英戦争を見たあと、どうしたのだろうか???
 そこが、命題で、庄内藩との関係ですね。
 庄内藩が、清河八郎の動きにより、倒幕派になり薩長とくんだか??
 
返信する
着目点 (鏡川伊一郎)
2011-12-16 04:31:17
ノブさん、コメントありがとうございます。
 尊皇攘夷論者であるかぎり、日本を意識しているというのが松浦さんの立場でもあります。たしかに『日本書紀』に綴られている天皇を敬慕するわけですからね。
 八郎と庄内藩の関係に視点を移すと、なるほど違った風景が見られるかもしれません。
返信する
Unknown (ノブ)
2011-12-16 14:11:09
 つまらない事を言って、それなのに、コメント、本当にありがとうございます。
 鏡川さんのブログに刺激され、昨年からブログで少し書いているのです。恥ずかしくてブログ名も言えずで。(その結果、来年には、運よく本を出せそうです。鏡川さんのブログも参考になりました。まだ、確実に出るとは、言いませんが、お礼を述べておきたいのです。)

 尊王攘夷といっても水戸学と本居宣長の二つの流れがあると、指摘されており、松浦さんは本居だけで論じてますが、水戸学は、幕府が実は日本国を統治する立場での尊王攘夷ということらしいですよ。
 水戸学の根本は藤田東湖などは、幕府=日本国ともいえるようです。だから、幕末、水戸藩は何の活躍もできなかった。

 庄内藩は海運も盛んで、倒幕派になる要素はあったが、慶応三年初めに朝廷派はほとんど、粛清されてしまった。西郷の恩師も。
 ですから、清河八郎の存在は庄内藩では論議されていないけど、重要なのだと思っていますが。  具論で申し訳ありません。
返信する
エール (鏡川伊一郎)
2011-12-16 19:35:25
ノブさん、ご本を出されるとはすばらしい。来年が楽しみですね。
 たしかに庄内藩を視野に入れておかなくてはなりませんね。とても刺激になるコメントをいただきました。
 
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。