小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

清河八郎の最期 その7

2011-12-27 16:16:53 | 小説
 浪士組に東下せよという関白からの命令の出た翌日、つまり3月4日、将軍家茂が京都に到着、二条城に入った。
 老中の水野忠精と板倉勝静らが随行している。将軍の上洛は家光以来で、なんと236年ぶりのことであった。
 その翌日の3月5日、清河八郎は3通目の建白書を提出した。
 こんどは具体的な提案を幾つか書き連ねているが、力点はひとつである。将軍勅を奉ずる上は速やかに帰府して天下に号令し、征夷の大業を遂ぐる事、そのことであった。京都守護は会津侯に委任すればよいと八郎は書いている。
 八郎の心づもりでは、将軍は滞京10日で江戸に帰るし、そのスケジュールと軌を一にして浪士組も東帰する、というものだった。
 しかし、もう八郎の思惑通りに事は運ばない。
 3月13日早朝東下と決まったが、浪士組の中から京都に残留したいという者たちがあらわれ、浪士組は分裂したのであった。よく知られているように京都残留組には、のちに新選組となる14人がいる。
 残留組の言い分は、将軍が攘夷の勅命を奉じて江戸に帰るという運びになっていない、将軍が京都にいる限りは京都に留まって将軍を守護したいというものだった。
 この言い分は、浪士組に賜った勅諚と達文(朝旨)を無視するものであった。自分たちは幕府に雇われているのだから幕府の指示がなければ動かない、というわけである。
 ここで面妖なのが浪士組の正式なリーダーである鵜殿鳩翁の態度である。
 残留か東帰か、彼が幕府の一員として態度を鮮明にすればよいものを、それができない。というよりも残留したいものがあれば申し出よ、などと組織の分裂をむしろ助長し、残留者の取締を殿内義雄と家里次郎に命じていた。のちに新選組となる面々を松平容保に仲介したのも、この鵜殿である。
 その鵜殿、例の勅諚を山岡鉄太郎から預かっていたが、東下が決まって八郎が山岡と一緒に返却を迫ったら返さなかった。江戸に帰ったら返すといって態度を曖昧にしたのである。
 江戸に帰っても返さなかった。閣老の手に渡してあるから手元にないと八郎の使者藤本昇に言うのである。藤本が、では直接閣老から受け取るようにするというと、おおいに狼狽して藤本をなだめたようである。八郎が暗殺されるのは、この数日後であるから、勅諚問題が暗殺の原因のひとつになっていると推定するのは大川周明である。
 八郎の暗殺は、たしかに幕府から指示が出されていた。


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