小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

歌びとと二・二六事件  7

2008-05-13 01:49:06 | 小説
 戒厳司令官香椎浩平に出された奏勅命令は次のような文面である。
「戒厳司令官ハ三宅坂附近ヲ占拠しある将校以下ヲシテ速ニ原姿勢ヲ撤シ各所属師団長ノ隷下ニ復帰セシムベシ」
 決起部隊はいまや反乱軍となり、戒厳司令部は28日午後11時「断固武力ヲ以テ当面ノ治安ヲ恢復セントス」という命令を発した。29日の午前9時を期して反乱部隊を攻撃と発令したのであった。集められた重武装の鎮圧軍は2万3,841名。決起部隊の15倍の兵力である。
 斎藤瀏と栗原中尉の電話が盗聴されたのは、そういう緊迫した状況下の29日未明であった。中田整一の著書から抄録してみる。Aとあるのが斎藤である。

栗原 あのね。
A   うん。
栗原 もしかするとね。
A   うん。
栗原 今払暁ね
A   はあ。
栗原 攻撃してくるかもしれませんよ。
 (略)
栗原 向こうもとにかく奏勅命令でくるかもしれませんよ。
A   うん。
 (略)
栗原 間に合わんでしょうね。
A   うん。間に合わないと思う。
 (略)
栗原 お別れですね。
A   うん。
栗原 ま、これでお別れですね。
A   うん、それでね。
栗原 はあ。
A   何とかまだやるけどね。
栗原 はあ。
A   うん。
栗原 ま、お達者で。
A   うん。
栗原 これが最後でございます。
A   うん。
栗原 それでは、皆さんによろしく言ってください。
A   うんうん、じゃ。
栗原 それでは。
A   はい。

 斎藤瀏は、もう間に合わないとわかっていながら、栗原らを救うための政界工作を「何とかまだやる」と言っているのである。彼には栗原の絶望がいたいほどわかっているから、ただ「うんうん」とうなずくだけで、ほとんど言葉を失っているけれど、ふたりの別れはこの通話で終わったのではない。もっと悲痛な別れが別の日にやってくる。


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