小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

歌びとと二・二六事件  8

2008-05-14 01:07:28 | 小説
 事件は2月29日のうちに終結する。午前8時には立川から飛行機が飛びたち、「下士官ニ告グ」という帰順勧告のビラを三宅坂上空で撒いた。戒厳司令部はラジオでも「兵に告ぐ」を繰り返し放送した。
 結局、三宅坂一帯は、幕末に挙兵した天誅組の吉野の山中のような事態にはならなかった。反乱部隊は午後2時頃までには、すべて帰順投降している。
 詰めが甘いといえばそれまでだが、決起した青年将校たちは上官に委ねた事後の政治処理が思惑通り進展せず、投降するよりほかなかった。青年将校たちのうち野中四郎大尉は拳銃自殺し、ほかは憲兵隊に逮捕された。
 栗原中尉は赤坂憲兵分隊で、当然ながら斎藤瀏との関係を訊問されている。訊問調書にみる栗原の答えは以下のようなものだ。むろん決起の資金調達を依頼したことなど白状するわけはない。
 
「将軍は父親の同期生であり、其一人娘は私の幼友達の関係上、昔より親類の様に附き合ひ、私的にも密接に出入りして居ました。将軍は私の信頼して居る立派な方で、短歌を二箇年ばかり教わった外、色々御指導に預って居たので、平素より時局に関する御意見等も承って居ります」
 
 斎藤瀏は栗原の短歌の師でもあったことがわかる。斎藤が反乱幇助の容疑で憲兵隊本部に召喚されたのは3月4日であった。物的証拠があったわけではないから自宅に帰されていたが、5月29日に再び召喚され、そのまま陸軍衛戍刑務所(渋谷区宇田川町)に収監されたのであった。そこには栗原もまた収監されていた。
 監房には鏡がなかった。斎藤は歌を詠んでいる。

 わが顔を映す鏡とこの牢にひそかにのぞく尿(ゆまり)の槽(おけ)を

 便器の水たまりを鏡がわりに眺めている自嘲に満ちた歌である。
 7月5日に青年将校たちに死刑の判決が下った。執行は7月12日。その前日の夕刻、看守の同情的なはからいで栗原は斎藤にメモ書きを渡すことができた。遺書ともいえる丸めた紙片が斎藤の監房にそっと投げ込まれていたのである。
「おわかれです。おぢさん、最後のお礼を申し上げます。史さん、おばさんによろしく。 クリコ」
 と書かれていた。
 29才の陸軍中尉は、あえて少年時代の愛称「クリコ」と署名しているのだ。
 その紙片をあらためてぎゅっと丸めて、斎藤は口の中に入れた。何度も何度も噛みしめながら、飲み下し、固く目をつぶった。
 処刑の朝、隣の棟のざわめく雑音の中から斎藤は「おじさあん」と呼ぶ声を聞いている。クリコの声だった。
「くりはらっ」と斎藤は大声で呼び返している。声は栗原に届いたと思いたい。ひとは生涯の間に、幾度こんな思いで他人の名を呼ぶだろうか。この若人とともに行かなむと思った栗原。
 ざわめきは静まり、それからしばらくの静寂ののち、最初の銃声が聞こえている。
 この日、銃殺されたもの15名。5名ずつ3回にわけて処刑されている。栗原は最初の組だった。 


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