小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

歌びとと二・二六事件  6

2008-05-09 22:37:44 | 小説
 二・二六事件は、いわゆる皇道派の青年将校によるクーデター未遂事件として概括されている。そして事件に至るまでの伏線的な史的事実あるいは当時の陸軍内の穏健的な統制派と急進的な皇道派の対立を語る史料にはこと欠かない。
 しかし、この事件にはかんじんなところで、よくわからないところがある。なにかが隠蔽され、あるいは封印されているという印象をぬぐえないのだ。
 たとえば須崎愼一は平成15年に刊行した『二・二六事件 青年将校の意識と心理』(吉川弘文館)でこう述べている。
〈もちろん本書は、二・二六事件のすべてについて明らかにしようとするものではない。いや、それは現時点では不可能である。「二・二六事件裁判記録」という史料に現われる陳述・証言が一部を除き、軍中央や宮中関係者――とくに最大の当事者・天皇――に及んでいないからである。〉
「裁判記録」といっても、今日的な裁判をイメージしてはいけない。戒厳令下にあるという理由から、戦場における軍法会議にならったものだ。陸軍大臣を長官とした特設軍法会議で、一審即決・非公開・弁護人なしという条件の裁判だったからだ。
 史が歌った「弁護人なき敗者に残る記録とてなし」は、まさにそのとおりなのである。
 ただ確かにいえることが一つある。青年将校たちは天皇の怒りをかうということをまるで予想していなかったことだ。昭和維新を標榜した彼らは、自分たちを尊皇義軍だとみなし、「君側の奸」を排除したつもりだった。ところが彼らの排除(殺した)した奸物を、天皇は「股肱の老臣」と評したのであった。
「朕の股肱の老臣を殺戮す、かくのごとき凶暴の将校ら、その精神において何の恕すべきものありや」
 と天皇は激高された。そう日記に書いたのは本庄繁侍従武官長である。本庄自身は彼らの行動に同情的だったのに、天皇からそう一喝されたというのである。
 青年将校たちの悲劇は、皇道派と呼ばれながら、天皇の逆鱗に触れて反乱軍となるという、その矛盾にあった。
 そして処刑されるときは「天皇陛下万歳」と言って死んだのである。
 史にも歌がある。

  天皇陛下萬歳と言ひしかるのちおのが額を正に狙はしむ

 しかし栗原中尉が死の間際に「天皇陛下万歳」と言ったかどうかは別の問題である。そのことはあとで触れたいと思う。


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