小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

おりょうさんの子供?  1

2009-11-21 23:27:41 | 小説
 坂本龍馬の妻だったおりょうさんと再婚相手の松兵衛の間に生まれ、17歳で死んだ息子の名と墓の場所を知りたい、という投稿がミクシィのコミュニティのひとつにあった。それは養子の松之助のことでしょうと私はコメントさせていただいたが、ふと気になって、「ウイキペディア」で、おりょうさんのことを検索してみた。「楢崎龍」の項目に、案の定、以下のような記述があった。

〈30歳のとき旧知の商人西村松兵衛と再婚した。晩年はアルコール依存症状態で、酔っては「私は龍馬の妻だ」と松兵衛にこぼしていたという。龍馬との間に子はなかったが、明治七年(1874年)34歳の時に松兵衛との間に男児を出産後入籍(戸籍に届けた名前は西村ツル)するも、その息子は明治24年(1897年)17歳で死去〉

 この項目のライターは、まず宮地佐一郎氏の記事を根拠にしていると思われる。
 宮地氏は「お龍に子がいたのである」で始まる記事を昭和55年7月10日付けの高知新聞に発表、昭和61年7月発行の『随想坂本龍馬』(旺文社文庫)に収録していた。さらに平成3年8月発行の『龍馬百話』(文春文庫)の「第87話」で、ほとんど同様の内容を披露している。ただし、こちらのほうは「お龍に子供がいた」で始まる。文章はこう続く。

〈そして明治の中葉まで生きていたのである。勿論、慶応3年(1867)11月、彼女の数え年27歳で死別したので、龍馬の子を生んだわけではない。第二の夫西村松兵衛との間に生れた子供であった〉

 宮地氏といえば、龍馬研究の第一人者であるから、誰しもこれは鵜呑みにしたくなる話だ。
 宮地氏については思い出がある。氏の編述による『龍馬の手紙』(PHP文庫版)にサインをお願いしたら、名前を聞かれた。名のったら、「あなただったの」と顔をまじまじとみつめられた。その言葉で、私の龍馬に関する小論を氏が読んで下さったことがわかり、嬉しくなって「はい」とだけ答えた。氏は私の名を書きつけ、サインされた。平成14年6月のことで、氏がまだ御元気だった頃である。
 さて、しかし宮地氏の、おりょうさんの子供説には、異をとなえなければならない。


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