おりょうさんの墓のある横須賀市大津町の信楽寺の過去帳には、彼女の母の貞の記載がある。明治24年条に「楢崎太一郎母」(注:太一郎はおりょうさんの弟)とあって、1月31日に死去したことが確認される。確認されるというのは、おりょうさんが『反魂香』で語っている母の死亡年月日に合致しているということだ。この過去帳を宮地氏は直接見たらしい。母の記載から「数枚めくると記帳に」と、こう書いている。
〈「明治二十六年九月九日 見応松道信士
西村松平子 十九歳」
とある箇条を見付けた。即ち逆算してみると、明治七年、お龍三十四歳の頃、松兵衛との間に一男を儲けたことが明らかになった。〉
ところがである。鈴木かほる氏の『史料が語る坂本龍馬の妻 お龍』(新人物往来社)によれば、「西村松平子」の戒名は「明治24年条」にあるという。つまりおりょうさんの母の死亡した同じ年に死んでいるのだ。鈴木氏は、信楽寺の新原千春住職から過去帳の写しを頂いたとして、そう記述しているのだが、「よこすか龍馬会」が同寺におさめた「見応松道信士」の位牌も「明治二十四年九月九日」となっている。
宮地氏はなにか勘違いをされたのか、と思われそうだが、ここで腑におちないことがある。宮地氏が、「逆算」して、この子を明治7年生まれとしたことである。これはぴったり合っているのである。つまり過去帳の「十九歳」を、宮地氏が捏造するわけはなく、事実そう記載されているのなら、この子は明治24年に死亡したことにはならない。過去帳の実物の写真でも公表されれば、いいのにと思う。
いずれにせよ、この子、名は松之助は、宮地氏の逆算どおり明治7年8月15日の生まれであった。このことは松兵衛の生地である滋賀県近江八幡市の除籍簿写しで明らかである。その除籍簿写には、
明治八年十一月二十三日 大阪府下大六第九一小区上本町 楢崎て以ノ孫入籍
養嗣子松之助 明治七年八月十五日生
と記載されている。
「て以」というのは、むろんおりょうさんの母の貞のことであって、その孫であるからして、やはりおりょうさんの子ではないか、というわけにはいかない。問題は「養嗣子」の文言である。
〈「明治二十六年九月九日 見応松道信士
西村松平子 十九歳」
とある箇条を見付けた。即ち逆算してみると、明治七年、お龍三十四歳の頃、松兵衛との間に一男を儲けたことが明らかになった。〉
ところがである。鈴木かほる氏の『史料が語る坂本龍馬の妻 お龍』(新人物往来社)によれば、「西村松平子」の戒名は「明治24年条」にあるという。つまりおりょうさんの母の死亡した同じ年に死んでいるのだ。鈴木氏は、信楽寺の新原千春住職から過去帳の写しを頂いたとして、そう記述しているのだが、「よこすか龍馬会」が同寺におさめた「見応松道信士」の位牌も「明治二十四年九月九日」となっている。
宮地氏はなにか勘違いをされたのか、と思われそうだが、ここで腑におちないことがある。宮地氏が、「逆算」して、この子を明治7年生まれとしたことである。これはぴったり合っているのである。つまり過去帳の「十九歳」を、宮地氏が捏造するわけはなく、事実そう記載されているのなら、この子は明治24年に死亡したことにはならない。過去帳の実物の写真でも公表されれば、いいのにと思う。
いずれにせよ、この子、名は松之助は、宮地氏の逆算どおり明治7年8月15日の生まれであった。このことは松兵衛の生地である滋賀県近江八幡市の除籍簿写しで明らかである。その除籍簿写には、
明治八年十一月二十三日 大阪府下大六第九一小区上本町 楢崎て以ノ孫入籍
養嗣子松之助 明治七年八月十五日生
と記載されている。
「て以」というのは、むろんおりょうさんの母の貞のことであって、その孫であるからして、やはりおりょうさんの子ではないか、というわけにはいかない。問題は「養嗣子」の文言である。