小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

中岡慎太郎を考える  7

2007-02-20 20:51:02 | 小説
 香川敬三は旧名は鯉沼伊織、水戸藩の出身者である。慶應3年当時は小林彦次郎という変名を使っていたから、小林敬三と称されることもあった。いずれにせよ、近江屋事件の現場に駆けつけたにしては、そのことを示す史料が『岩倉公実記』のほかに見当たらないのだ。なぜ、こんなに影が薄いのか、おかしくはないか。中岡慎太郎ひきいる陸援隊の、香川敬三は副隊長格であった。瀕死の慎太郎と香川敬三のからみがあれば、目撃され、人々の印象に残っていていいはずである。それがそうではない。
 あの夜、近江屋に駆けつけた同志(医師を除く)として確認できるのは次の人々だ。
 曽和伝左衛門、島村要(土岐眞金)、岡本健三郎、谷干城、毛利恭助、大橋慎蔵、宮地彦三郎、田中光顕、吉井幸輔、安保清康、白峰駿馬。
 毛利恭介と一緒に駆けつけた谷干城によれば、彼らは「速い」ほうだったという。だから谷はまだ息のある慎太郎から話を聞けている。谷の明治になってからの講演によれば、慎太郎が「その死なぬ前に傍にいたのは、即ち今の宮内大臣田中光顕、これも土佐の白川屋敷に囲ってあった浪人組(陸援隊のこと)で、即ち自分の大将がそういう災難に遭うたものだから田中がとりあえずやって来た。それから田中が石川(慎太郎)を慰めて、云々」とある。その田中は島村要によれば、島村の後からやってきた、という。
 慎太郎は「速く事を挙げよ、速くやらねば君らもやられるぞ」としきりに言ったらしい。これが谷の聞いた慎太郎の遺言である。田中は「刀を手元におかなかったのが不覚だった。君らもこれからは刀を肌身から離すな」という慎太郎の言葉を遺言のように聞いている。
 いずれにせよ、岩倉公に云々などという慎太郎の言葉を誰も記憶していないし、香川敬三がその場にいたと証明してくれる人間がいない。私が捜した史料にはいないのである。
『岩倉公実記』の記述は、私には創作としか思えない。
 


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