小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

中岡慎太郎を考える  8

2007-02-21 18:06:52 | 小説
 ただし、なぜだか岩倉具視は事件の翌日には、もうそのことを知っていた。正親町(おおぎまち)三条実愛(嵯峨実愛)が「極秘禁他見」としたメモを残しているのだが、11月16日付けのメモは、次のようなもので、実愛は岩倉の密書でふたりの凶事を知ったのである。
「…和より岳状来、坂横暗のこと、即古へ達候」(『嵯峨実愛手記』)
 まるで暗号のようであるけれど、「岳」が岩倉具視のこと、「和」は中御門経之、「古」は中山忠能のこと、むろん「坂横暗」は坂本龍馬と慎太郎の変名のひとつである横田が暗殺にあった事を指す。つまり、ふたりの凶事を告げる岩倉の密書がまず中御門に届き、それが三条実愛に転送(あるいは内容のみ)され、また中山忠能に転送した、というのがメモの意味である。ちなみに、謎めくが、『嵯峨実愛日記』の11月16日には凶事のことはなにも書かれていない。実愛は正規?の日記と裏日記のふたつを使い分けていた。
 メモの日付けの16日が微妙である。このメモでは坂こと龍馬も、横こと慎太郎も暗殺された、つまりふたりとも死んだようにも受け取れる。だが、即死に近い龍馬とはちがって、慎太郎は16日にはまだ生きていたのではないか。
 さてここからは、中岡慎太郎の命日が問題となる。事件があったのは15日、定説では慎太郎は17日に死んだことになっている。二日間生きていたということになる。
 ところがである。谷干城は明治の講演の中で「15日の夜に斬られて16日の午後今の1時過ぎまで生きて居って…」あるいは「今申す通り16日の午後1時か2時頃、昔で云ふと8ツ時といふくらゐに死んだ」さらには「とうとう翌日の8ツ前くらゐに斃れた」と三度も翌16日死亡に言及している。谷ばかりではない、田中光顕も「翌朝絶命した」と述べている。この時代、まだ日の数え方に混乱がある。思い出されるのは、本居宣長の遺言である。
「我等、相果て候はば、必ず其の日を以って忌日と定むべし。勝手に任せ日取を違候こと、これ有るまじく候、さて時刻は前夜の九ツすぎより其の日の夜の九ツまでを其日と定むべし」
 宣長がわざわざ注意をしなければならぬほど、日の数え方がまちまちだったのが江戸時代だ。
 さて、慎太郎はいつ死んだのか。


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