小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

落ちた涙あるいは桜の精の物語  4

2006-03-28 18:33:33 | 小説
 サホ姫は、けれども夫の心を読んでいた。彼女は髪を剃り、かつらにした。三重の玉の緒(ブレスレット)を切れやすくして手にまいた。さらに酒で腐食させた衣装を身に着けて、御子を抱き、城の外に出る。姫奪回の使命を帯びた兵士たちは、まず御子を受け取り、姫をかすめとろうとする。(以下原文)

 即ちその御おやを握りき。ここにその御髪を握れば、御髪、おのずから落ち、その御手を握れば、玉の緒また絶え、その御衣(みけし)を握れば、御衣すなわち破れつ。これをもちてその御子を取り獲て、その御おやを獲ざりき。

 天皇の落胆は大きかった。玉作りに八つ当たりして、その私有地を没収したというエピソードが語られているほどだ。切れやすいブレスレットなど作るな、というわけだ。それは枝葉末節のことだが、サホヒコはついに殺される。そしてサホ姫も死ぬ。彼女はサホヒコに殉じて自殺したような書き方だ。彼女の母性は、いったいどこへいったのか。愛を交わしたふたりの男のはざまで、彼女は女として死んだ。母としては生きなかった。
 落ちた涙で始まる悲劇は、流した涙で泉に変身するギリシャ神話のインセスト物語に似ている。太陽神アポロンの孫娘ビュブリスは兄のカウノスを慕った。許されぬ恋だった。その慕情の激しさゆえに流した涙で泉になったのだ。
 あるいは万葉集の桜児伝説を思い出させる。昔、ふたりの男がひとりの娘の愛を得るため生死をかけて争った。娘はふたりの争いを止めるためには、自分がこの世から姿を消せばよいと考え、林に入って樹に首をつって死んだ。ふたりの男はそれぞれ血の涙を流して、次のような歌を詠んで、彼女を偲んだ。

 春さらば 挿頭(かざし)にせむと わが思ひし 桜の花は 散りにけるかも

 妹が名に かけたる桜 花咲かば 常にや恋ひむ いや毎年(としのはに)に

 桜の精霊のような娘だった。いや、美しい女人そのもが桜の精霊のように思われていたのだ。
 さて、サホ姫もまた桜の精ではなかったのか。
 サホというその名に秘密がありはしないか。
        
 


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