小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

谷干城は誤解されていないか  1

2007-03-29 16:33:25 | 小説
 土佐の谷干城(たてき)と会津の山川浩の、いわば男が男に惚れる物語が私は好きである。戊辰戦争では、敵と味方の間柄であったのに、新政府の陸軍の要職にあった谷は、山川を口説きに口説いて陸軍に出仕させている。会津攻めのとき、かって自分たちを悩ました山川の鮮やかな戦いの指揮ぶりを、谷はおぼえていたのである。西南戦争では、熊本鎮台司令長官として熊本城に籠城した谷の救出に、山川が活躍している。たしかこのときの怪我で山川は左手が不自由となるが、のちには互いに貴族院議員となり、会派を結成、生涯の盟友となった。
 その谷干城は、幕末史のまことに重要なふたつの局面にかかわっていた。坂本龍馬暗殺事件と板橋における近藤勇の取り調べである。いずれにも同時代史料として貴重な証言を彼は残しているのだが、ふたつの証言が妙な具合にリンクして、誤解を招いているように思われる。
 谷干城には、頑迷で短絡的な激高家、といったイメージが定着しているのではないのか、そんな気がするのである。
 たとえば、近刊の木村幸比古『龍馬暗殺の謎』(PHP新書)を読むと、例の今井信郎の自分が龍馬を斬ったという実歴談に谷が不快感を示したことが述べられている。それはいいけれど、「今井刺客説に反論し、やはりあくまで新選組の仕業だと言い切った」と書いている。これはちょっとニュアンスが違うんじゃないだろうか、と言いたい。谷は龍馬が「誰にやられたかということについては、未だ今に心にかけて詮議中である」と述べているのだ。「大学には歴史専門の諸君も沢山御在りなさることでありますから、どうか私がお話申上げる所をご参考となし下されて、事実の真相を御吟味になれば誠に大慶に存じます」とも述べ、さらに「随分あの時分は斬自慢をする世の中であったから、誰がやった彼がやったと云ふことは、実に当てならぬと思ふ。どうぞ御参考に供しますが、尚ほ御取調を願いたいと思います」と切々と訴えている。
 谷の明治39年の講演記録は『谷干城遺稿』収録の前半部分がカットされたものが文献として紹介されることが多い。全講演記録を読むべきである。印象はがらりと違うはずである。新選組が犯人だなどと単純に決めつけている人の話ではないのである。
 さて、龍馬を殺したのが新選組と信じきっていたから、谷は近藤勇の取り調べに際し、冷静でいられずに、いわば私怨、あるいは土佐の恨みを晴らしたという見方がある。あるというより定説化しはじめている。はたして、そうか。


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2 コメント

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私も (kozou)
2010-11-19 00:41:47
私もそう思います。山川との男の友情?
出来る男が出来る男を招く
素晴らしいことですね
もっとさらに勉強します
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ようこそ (鏡川伊一郎)
2010-11-19 06:37:32
コメントありがとうございます。谷干城のことは、もっと真実の姿が知られてもいいと思います。谷のことを誤解した子母澤寛のイメージのみんな後追いばかりで、困ったものです。
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