goo blog サービス終了のお知らせ 
goo

黙祷・・

 塾を終え、生徒を送り届けて帰宅した私の目に、「小6女児刺され死亡」という新聞の見出しが飛び込んできた。また子供が犠牲になったのかと暗澹たる気持ちに落ち込んだ次の瞬間に、「23才塾講師逮捕」という小見出しを読み取って、「えっ!」と我が目を疑った。しっかり読み直してみると、「殺人事件 口論になり」とある。いったいどういうことだ、そんなバカなことが・・と狼狽しながらも記事全文を読んだ。要約すれば、「10日午前9時すぎに京都市宇治市の学習塾で、23歳の男性講師が小6女児を出刃包丁で刺し殺した」というものだった。何てことだ、何をやってるんだ、と頭を金槌で殴られたような衝撃を受けたが、事実関係だけは把握しておかなければならないと思い、社会面を広げた。すると、「塾の中で・・・なぜ」「どう防げば・・」「住民ら戸惑いと怒り」という言葉が次々と目に入ってくる。近隣に住む主婦の話として、「この地域では、小学生の保護者が自転車で地域パトロールをしているが、塾の中で殺されたのでは止めようがない」というショックを隠しきれないコメントが載せられていた。まったくその通りだ。3日前に、私は学校からの下校を何とか安全にできないものかと書いたが、そらは学校の中での子供たちの安全が確保されていることを前提としたものだった。学校の中では安全だからこそ、下校時に細心の注意を払わなければならないと思っての言葉だった。それは塾でも同じことだ。塾の教室にいる間は誰もが授業に集中し、トラブルなど起きるはずはないが、帰宅時に子供たちが事件に巻き込まれないようにしなければならない。そのために私の塾ではマイクロバスで送るようにしている、と私のとり得る最善策を述べたのだが、それがこんな残虐非道な事件が起きてしまうと、その根底が覆されてしまったようで、いったいどうすればよいのかとしばし途方にくれてしまった。
 確かに塾は勉強をするところだ。勉強さえちゃんと教えてくれれば、他のことなど構ってくれなくてもいいと考える父母は多いかもしれない。しかし、しっかりと勉強させ、それを一つ一つ身に付けさせるためには、塾の教師が生徒たちから信頼されなければならない。私が全人格的に信頼に足る人間であるかは自信はないが、少なくとも塾生に対しては絶対の信頼を得られるように常に努力している。ただテストの点がよくなればいいだけでなく、生徒個々の姿勢や態度についても、気になる点があれば遠慮なしに指摘する。そうすることで生徒を少しでも人間的に向上させたいと思うからであり、真剣に対すれば子供たちは必ずそれに応えてくれると信じている。(とはいっても、なかなか思い通りにはいかないことはしょっちゅうだが)
 それがこんな事件が起こってしまうとどうなるんだろう。生徒が塾の教師を心から信頼できなくなってしまう。果たしてそれで学んだことが残っていくだろうか。この事件を起こしたばか者は、6年生の女児を殺害しただけでなく、多くの子供たちの心に不信の芽を植えつけてしまった。同時に、私を含め生徒たちと毎日真剣に向かい合っている多くの塾教師たちへの、生徒の信頼を失墜させてしまいそうで本当に悔しくてたまらない。
 私はなるべく全ての生徒を分け隔てなく見るようにしているが、私の手が回らないところは、私の塾で何年も学んだ弟子とも言うべき大学生たちに、補助として助けてもらっている。彼らは皆私の思いを理解してくれて、私が彼らに接したように、生徒達に接してくれている。私は彼らを信頼し、彼らも私を信頼してくれているのだが、こんな事件が起こってしまうと、彼らを不信の目で見直さなければならなくなる。そんなバカなことをしでかす者たちではないと分かっていても、責任者として彼らに注意を促さなくてはならない。私たちが何年もかかって築きあげてきた信頼関係を傷つけるようで辛いが、生徒の安全だけは徹底しておかなければならない。
 それにしても、塾の教師がなぜ出刃包丁などを持っていなければならないのか。塾にそんな物が置いてあるはずもないだろうから、その男が持ち込んだのだろうが、いったい何を考えているのだろう。もう、こんなに連続して子供たちが犠牲になる事件がおきてしまうと、言葉も出なくなってしまいそうになる。しかし、どんなに辛くとも、今だからこそ、子供たちの安全を全身で叫び続けなければならないと思う。
 
 亡くなられた女の子の冥福を、心からお祈りいたします。
コメント ( 33 ) | Trackback ( 0 )

ニキビ

 昨夜風呂から出てびっくりした。何気なく鏡を見たら、上唇の上にニキビができていた。赤くはれた先に白い膿がたまっている。小さなものだったが、いつの間にできたのかわからない。「へ~っ、俺もまだ若いじゃん」となんだか嬉しくなって、すぐに潰してやった。記念にとっておくのも変だろうが、今思えば写真くらい撮っておけばよかった。こんなニキビができたのはいったい何年ぶりだろう。全く思い出せないほど、昔のことだったんだろう・・
 私は若い頃はひどいニキビ面だった。中学校に入ってすぐくらいからでき始め、大学に入ってからもかなり悩まされた。中学1年の時など、鼻のすぐ横に小豆大のものができて、潰すにも潰せずとうとう外科医に行って切開してもらったことがあった。本当に無数のニキビで両頬はいつも赤くはれているような状態だった。あまりにひどかったものだから、これは内臓のどこかが悪い証拠だなどと母から脅されたこともあったが、毎日何度も洗顔し、色んな薬も試したのだが、何の効き目も現れなかった。
 ニキビの罪作りなのは、赤く腫れて見苦しいこともあるが、それ以上に潰したあとに傷跡がいつまでも残るというのがある。さすがに今は大分目立たなくなったが、それでもよく見れば無残な跡はいくつも見つけられる。跡が残るから潰したらダメだよ、とよく注意されたが、毎日鏡を見てはニキビを潰すのが私の日課のようになっていたので、次から次にできては次から次に潰し、どんどん傷跡が残っていく、という悪循環の繰り返しだった。当時はデコボコになった頬を眺めながら、何でこんなになっちまったんだと嘆いたものだが、自業自得だから仕方ない。しかし、夏目漱石がひどい「あばた面」だったことを知り、漱石に心酔していた当時の私には、文豪と同じ悩みをかかえているような気になって、ちょっとした自慢だったから笑えてしまう。「吾輩は猫である」にも以下のような記述があり、漱石が「あばた面」を気に病んでいたことがうかがえる。

 主人はあばた面である。御維新前はあばたもだいぶはやったものだそうだが日英同盟の今日から見ると、こんな顔はいささか時代おくれの感がある。あばたの衰退は人口の増殖と反比例して近き将来には全くその跡を絶つに至るだろうとは医学上の統計から厳密に割り出されたる結論であって、吾輩のごとき猫といえどもごうも疑いをさしはさむ余地のないほどの名論である。
 現今地球上にあばたっ面を有して生息している人間は何人ぐらいあるか知らんが、吾輩が交際の区域内において打算してみると、猫には一匹もいない。人間にはたった一人ある。しかしてその一人がすなわち主人である。はなはだ気の毒である。

 私は、高校生のときに何かの雑誌でニキビの傷跡を治す方法というのを見つけて、実践してみたことがある。その方法とは、「紙やすりでニキビ跡を血がにじむ程度までこすってみる。数日たって、かさぶたが出来上がった頃にはがしてみれば、でこぼこは直っている」というものだった。それはすごいや、と単純な私は実際にやってみた。うっすらと血が両頬に滲むまでこすって、かさぶたができるのを楽しみに待った。数日たって出来上がったかさぶたをそっとはがしてみた。すると、嘘のように傷跡が見えなくなっているではないか!私は天にも昇るような喜びで数日間暮らした。だが、・・・当時の私はまだ若かった。いくら元通りになったように見えてもそれは表面だけで中身はニキビ体質のままだった。すぐにニキビが両頬を多い、また懲りもせず、潰していったものだから、元のデコボコに戻るには長くはかからなかった。それに嫌気が差して二度と同じことはしなかったが、今思えば最良の治療薬は時間しかないようだ。
 妻に昨夜のニキビのことをちょっと自慢して話してやったら、『そんなものニキビのわけないじゃん、ただの吹き出物!」と一笑に付されてしまった。相変わらず厳しいや。



コメント ( 16 ) | Trackback ( 0 )

仁和寺の法師

 忘年会シーズンだ。私はもう何年も忘年会などというものに参加したことがないが、それでも巷の狂乱を思い描くだけで、なんだか胸がわくわくしてくる。根がお祭り好きの男だから仕方がない。酒宴の席で見苦しい姿を見せたことも多々あるだろうが、まあ、そんなものは醒めてしまえば忘れることにしている。が、やはり醜態をさらさないに越したことはない。
 そこで、自戒の念を込めて「徒然草」の一節を現代語になおして、何事もやりすぎはひどい目に遭うことを心に刻み付けておこうと思う。

 これも仁和寺の法師の話だが、稚児が法師になろうとする別れの会というので、各自酒など飲んで遊んだことがあった時に、酔って浮かれたあまりに、仁和寺の法師が傍にある足鼎(あしがなえ--写真参照)を取って頭にかぶったところ、鼻や耳がつかえるようなのを、押して平たくして顔をその中に差し込んで、舞い出たので、その座にいた人々はすべてこの上なくおもしろがった。しばらく舞った後、その法師が鼎を抜こうとしたがどうしても抜くことができず、酒宴も一気に興が冷めてしまって、皆はどうしようかと途方にくれてしまった。鼎を抜こうと皆があれこれすると、法師の首の周りは傷つき血が垂れ、ひどく腫れ上がってきて、そのため息も詰まってきたので、鼎を打ち割ろうとするのだけれど容易に割れない。叩く音が鼎の中の法師の頭に響いて我慢ができなかったので、どうしようもなくて、鼎の三本足の角の上に帷子(かたびら)をかけて、手を引き杖をつかせて、京都にいる医者の元へ連れて行った。その道々、人が奇妙に思って見ることといったらこの上ない。医者のところへ入って、その法師が医者と向かい合って座っていたと思われる様子は、さぞかし異様であったことだろう。法師がものを言っても、鼎の内にこもった、はっきりしない声で響いて聞こえない。医者が、「こういうことは医書にも見当たらないし、昔の人の伝えた教えもない」と言うので、また仁和寺へ帰って、親しいものや年取った母などが、法師の寝ている枕元に寄り集まって泣き悲しむのだが、本人は聞いているようにも思われない。こうしているうちに、ある者が言うには「たとえ耳や鼻がちぎれてなくなってしまっても、命だけはなんとか助かるはずだ。ただ、力を込めて鼎を引っ張りなさい」と言うので、藁の芯を鼎の周りに差し込んで、顔と鼎のかねの部分を離して、首も千切れるほどにして思い切り引いたところ、耳や鼻がとれてそのあとに穴が開きながらも、鼎は抜けた。もう少しで死ぬところの危うい命を拾って、長い間病み臥していたということであった。
                          (第53段)

 「こんな奴はおらんやろう」と、漫才師の声が聞こえてきそうだが、酔っ払って調子に乗ってしまうと何をしでかすか分からないのは、古今東西人間共通の性だろう。高校生が「徒然草」の勉強をしていると、時々借りてこの段を読むのだが、何度読んでも笑える。鼎をかぶって踊っている様を想像するだけで、馬鹿騒ぎ振りが目に浮かんでくる。周りに囃し立てられ、馬鹿がエスカレートして収拾が付かなくなったことは私にも何度か覚えがある。皆が期待していてくれると、妙に興奮して普段なら思いもしないことをやってしまう。
 しかし、度を過ぎた醜態は時として、悲劇をもたらす。昔、友人の結婚式の2次会で、さあ、新郎を最後に胴上げしようと、皆が集まって何度か胴上げするうちに、力を込めすぎて新郎が天井にぶつかり照明を壊してしまったことがあった。幸い、だれにも怪我はなかったが、後から思い出すと冷や汗ものであった。そんなことの1つや2つはだれでも経験したことがあるだろう、などと思ってしまうのは、お調子者の私だけなんだろうか。
 今夜も、「仁和寺の法師」のような羽目に陥ってしまって困っている人が、日本のどこかに必ずいるだろうな。
コメント ( 14 ) | Trackback ( 0 )

送迎

 広島と栃木で相次いで、下校途中の小学女児が殺害された事件には、やり場のない憤りを感じる。何故そうも簡単に人間を殺すことができるのか。そんなにか弱い者たちを本当に無残な姿にしてしまうことが何故できるのだろうか。広島の事件は犯人のペルー人が逮捕され、「悪魔が体の中に入った」、と意味不明の供述をしているようだが、そんな言い訳に過ぎないコメントを読むと怒りと悲しみで体が震えてくる。栃木の事件はまだ犯人が逮捕されていない。一刻も早く見つけ出さなければならない。たとえ、犯人が捕われても、被害にあった女の子たちは戻って来はしないが、彼女たちが少しでも安らかな眠りにつけるよう、一刻も早く犯人の逮捕をと、祈るしかない。それにしても・・・と悲しみは尽きない。
 両事件とも下校途中であったことから、全国的に児童の下校の仕方が見直されている。親が迎えに行くことも1つの案ではあろうが、仕事上都合が付かない親もいるわけだし、なかなか難しいだろう。かと言って、先生が送っていったところで、自宅前まで1人1人送っていくのは、時間的にも人員的にも無理だ。そこで、地域の人々がボランティアとして日替わりで生徒を送って行くということに取り組んでいる所もあるようだが、生徒の下校時間がまちまちでなかなか上手くいかないのが実情のようだ。また、都会なら住居がまとまっているからそういうことも可能であろうが、私の町のように少子化がすすみ、住居が点在しているような地域では難しい面もあるだろう。
 そこで、スクールバスの導入も検討されているが、予算面で実現化は難しいようだ。自宅の前までバスで送って行けば、それが一番の安全策であるのが分かっていても予算が・・となるのは、行政の怠慢だと言ってはいけないだろうか。下らぬ事業で要らぬ税金の無駄遣いをするくらいなら、それこそ高速道路の建設を中止してでも、予算をスクールバスに回せと言っては暴論になるだろうか。役所に行けば、手持ち無沙汰にしている職員を何人か見かけるのだが、彼らにやらせるわけにはいかないのだろうか。
 私の塾では、塾生の送迎に希望者はマイクロバスを利用できるようにしている。塾までは親が送ってきて帰りはバスとか、行き帰りバスとか、生徒の事情によってまちまちだが、大半の生徒がバスを利用している。今現在は4台のバスを走らせてなるべく短時間で自宅まで送っていけるような態勢を整えている。確かに、車輌の購入費・維持費、燃料代、人件費、自動車保険料などを細かく計算すれば、かなりの額が年間必要であるが、基本的にはバス代を別にもらわないでやっている。(遠隔地からは若干協力費を頂いているが)経営者としてはこんなことをしていては失格なのかもしれないが、生来ずぼらな私はやれる間は無料でやって行こうと覚悟を決めている。子供が少なくなってきて、本当に離れたところからぽつんぽつんと生徒が来てくれるものだから、このシステムを維持していかなけりゃ、安心して夕方から夜にかけて大事な子供を預けることはできないだろうと、こんな嫌な世の中になればなるほど、痛感する。ドアからドアへ、というのが理想なんだろうけど、さすがにそこまでは無理なので、なるべく近くまで送って行き、あとは親に迎えに来てもらっているが、今私の塾がとれる最善の策はこれしかないと思っている。
 本当にドラえもんの「どこでもドア」があって欲しい。何でこんな世の中になってしまったのかと嘆く前に、できる限りの自衛策を取らなければならない。塾生にも、折に触れて、そうした注意を呼びかけている。子供たちの笑顔が消えてしまうような世の中にだけはしてはいけない。
 塾としては、とにかく安全に生徒を自宅まで送り届けることが第一だ。そのためには、常に安全運転を心がけなければいけない。ハンドルを握るたびに、自戒しているが、これこそどれだけしてもし足りないほどの大鉄則である。今まで以上に気を引き締めていかなければならない。
コメント ( 36 ) | Trackback ( 0 )

05ヒット商品

 三井住友銀行の子会社SMBCコンサルティングが5日、05年のヒット商品番付を発表し、それが新聞に載っていた。世間知らずの私が見てたところで、全て分かるものばかりではないが、自分なりの感想を述べてみたい。
   
          東         西
        愛知万博  横綱  アキバ
          ブログ  大関  「iPod」ファミリー
          宮里藍  関脇  『NANA』
   寒天ダイエット料理 小結  「AQUOS」VS「VIERA」
          LOHAS 前頭1 生鮮百円コンビニ
    「のどごし<生>」前頭2 「氷結」VS「-196℃」
スチームオーブンレンジ 前頭3 「ニンテンドーDS」VS「PSP」
       『ごくせん』  前頭4 『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』
   手ぶれ防止デジカメ 前頭5 「写ルンですNight&Day」
            ETC 前頭6 家庭用光ファイバー通信
   <今後の注目株> レクサス FIFAワールドカップドイツ大会

 さすがに「横綱」は分かる。何と言っても愛知万博はわが庭のようなものだし(行っていないけど)、アキバも電車男みたいな奴らがうようよいるところだくらいは知っている。(「電車男」は本もドラマも何も見ていない)
 「大関」のブログは言うまでもなく、iPod は中高生が時々持っているから実物を見たことがあるし、聞かせてもらったこともある。便利だとは思うが、自分で買おうとまでは思わない。
 「関脇」の宮里藍は、ゴルフはあまり好きではないので、自分にもあんな娘がいたら楽できるのにな、という感想しかない。「NANA」というものは何か知らなかったので妻に尋ねたら、「『コーラス』というマンガ雑誌に連載されていて、それが映画化されてヒットしたもの。最初の頃は読んでたけど、おもしろかったよ」と答えた。全く何でも知っているおばさんだ。
 「小結」の寒天ダイエットなるものは妻がちゅるちゅるやっていたので知っているし、AQUAS や VIERA が液晶TVとプラズマTVのことだくらいは分かる。じゃあ、どう違うのか?と問われると返答に窮してしまうが。
 「前頭」になると、ずいぶん怪しくなる。LOHAS ってのが分からない。調べたら、Lifestyles Of Health And Sustainability の略で、一言でいえば、「ココロとカラダ・地球にやさしいライフスタイル」だそうである。何だかよく分からないが、そういう言葉に飛びつく人々もいるんだろうなと思う。私はビール好きだが、キリンの「一番搾り」一筋なので他の商品はよく分からない。TVゲームは息子も大きくなってめったにやらなくなったので、DS や PSP は我が家にはない。「ごくせん」は名前は知っているが本もTVも見たことがない。「さおだけ屋・・」は本屋で立ち読みしたことはあるが、ミリオンセラーになってしまうとへそ曲がりの私は読みたくなくなってしまう。デジカメは、このブログ用に一台欲しくてたまらないが、年末を控え出費がかさむので様子見の状態である。(本当に欲しいよお)ETC は私の車にはついている。今年買い換えたら標準装備されていた。高速を走ったときにはとても便利で、ほとんど停まらずに料金所を通過できるのは、一般車輌を尻目にスーッと行けて気分がいい。光ファイバーは、NTT に申し込んであるが、申し込みが殺到していて、3・4ヶ月工事を待たなければいけないらしい。年内はとても無理なようだが、早くして欲しいと思っている。
 何のまとまりもない私のくだらない評では中途半端だろうから、ちゃんとしたプロの総評を載せておく。

 「2005年は、景気の回復基調がはっきりしてきたにもかかわらず、個人の消費行動が多様化し、各分野ごとの競争も激化したために大型のヒット商品は現れなかった。しかしそのようななかでも、愛知とアキバが情報の発信地として熱かった1年だったといえる。」
コメント ( 55 ) | Trackback ( 0 )

Happy Birthday (3)

 今日12月6日は私の妻の47回目の誕生日だ。ふーっ、何ておばさんになっちゃったんだ・・・
 18歳の誕生日を一緒に祝ったのが最初だったから、これで30回目の誕生日になる。何気なく気づいて、妻にそう言ってやったら、「ただ生きていりゃ、自然にそうなるに決まってるじゃない」とまったくつれない。「誕生日のお祝いに何が欲しい?」ときいてみても、「そんな心のこもっていない上辺だけの人から何か貰っても、うれしくないから何もいらない」と突っぱねる。本当に手続きが面倒くさい奴だ。もう慣れっこになっているからいいようなものの、それでも時々はカチンと来る。ほかっとけばいいものを、からかうのがおもしろくてまたちょっかいをかけてやると、同じ返事をする。これを何度か繰り返して、やっとのことで欲しい物を聞き出して、毎年何かを贈っている。といっても、ほとんどがSMAP関係の物だから、今年などは夏のライブDVDを注文しておけば満足らしい。結構安上がりだ。
 そう言えば、今まで特別こうしてくれとか、あれが欲しいとか言い出したことはあまりない。謙虚とか控えめとかそんな可愛らしいものじゃないが、何故だか自分からは言い出さない。私が先回りして、もうそろそろこれくらいのことをしておかないと、雲行きが怪しくなるぞと察知してあれこれやっているからだとは思うが、それにしても基本的に欲がない人間なのかもしれない。表面的に見れば、SMAPや藤原竜也など自分のお気に入りのためには、かなり貪欲だが、それ以外のことには不思議なほど恬淡としている。何でだろう?
 これだけ長く一緒に暮らしていても、謎の部分はまだまだある。芸能界の話題を毎日追っかけていれば、いつまでも夢見る少女のままでいられるのだろうか?妙に若くて、元気がいい。とてもあと少しで50になるようには見えない。しかし、ずっと化粧などしたことがなく、素顔のままで生きてきたのが、夏くらいから毎朝化粧をするようになった。「さすがに肌が年取って、自分でもこれじゃあ見苦しいと思って」とか言って化粧をし始めたときは、顔に下手な塗り絵をしたようで思わず笑ってしまったが、さすがに日を重ねるごとに見やすくはなってきた。化粧をした時としない時を比べれば、やはり若々しさに差ができるのは当然だが、逆に言えば、化粧をしなければ誤魔化せなくなったのかと、私としては少し寂しい気もする。だが、「素顔のままのほうがいい」などと洒落たことを言えなくなったのも事実だから、時には化粧品をプレゼントするのもいいかもしれない。
 それにしても、彼女にとって今年は充実した年であったことだろう。思い出せないくらいライブに行き、演劇を観て、友だちと会った。私はその間ずっと塾でうろうろしていただけだから、時々は羨ましくて仕方がなくなるのだが、彼女に言わせれば、「あなたはそうやって私に自由にやらせている自分が好きなだけだから、それで満足でしょう」だそうだ。いつからか、私はかなり誤解されてしまった。確かに、私は自分のことが大好きな人間だ。だけど、いくらそんな人間だと言っても、何から何まで自分を離れることができないと思われるのは心外だ。心から、本当に心から彼女のためを思ってあれこれやっているのに、どうしても分かってくれない。なにも彼女から感謝されたくてやっているわけでもないから、どう思われようと勝手だが、「もうちょっと素直な目でオレを見てくれよ」といつも心の中で叫んでいる。
 年内はあと一回、娘の部屋の大掃除に京都に行くのが唯一の予定らしい。友人との忘年会も何だか気乗りがせずに断ったそうだ。大掃除もしなけりゃいけないし、それなりに忙しいんだろう。でも、せっかくの30回目の誕生日だ。ぜひ盛大にお祝いしなけりゃいけない気にはなる。去年の結婚20周年のお祝いは、いつの間にかうやむやに終わってしまったから、やっぱり何か特別にプレゼントしなけりゃいけない。何が欲しいんだろう。でも、この間ちょっと洩らした「このマンションがいいな」という言葉を繰り返したとしても、聞こえないフリをするしかないのだけれど・・

コメント ( 35 ) | Trackback ( 0 )

夕暮れ

 「枕草子」に『秋は夕暮れ。夕日のさして、山の端いと近うなりたるに、烏の寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛び急ぐさへあはれなり』とあるが、私には秋の夕暮れを楽しむ時間的余裕など、残念ながらない。今は、授業を始めてふと気が付けば窓の外は真っ暗、という時期であるから、夕暮れなどないに等しい。それでも、清少納言が秋には夕暮れがいいと選んだのには同感できる。昼のほのかな暖かみが日の入りとともに褪せていき、冷気が体を包み込み始め、夜の訪れを肌で感じる時、何故かもの寂しさに襲われる。ふと朱に染まり始めた天を仰げば、からすが小さな群れを成して巣へと帰っていく。ああ、一日が終わるんだな、と心で感じ取れる瞬間だ。電気などなかった古人にとっては、夕暮れとはまさしく闇の世界への入り口であっただろう。それから翌日の朝まで続く長い闇の時間を思えば、夕暮れとは、私たちからは想像しがたいほどの感慨を彼らに催させたのではないだろうか。
 現代に生きる私たちは真の闇というものにほとんど接することができない。いくら私のように市街地から離れて暮らしている者の周りでも、どこかそこかに常に灯りが点いている。窓から訪れるのは月光のみなどと風流をきめこむことができないのが私たちの生活だ。夜が短くなったわけではないが、私たちは古人ほど夜に対する恐れを感じなくなったのではないだろうか。闇に潜む妖怪の類を恐れながら、古人はいくつもの怪奇譚を著したが、私たちはそうした想像力を刺激する真の闇から遠ざかってしまった。
 しかし、夕暮れ時は私たちの心をセンチメンタルにする力を失ってはいない。
    
   「夕暮れ時はさびしそう」  作詞/作曲 天野滋
  田舎の堤防 夕暮れ時に
  ぼんやりベンチに すわるのか
  散歩するのも いいけれど
  よりそう人が 欲しいもの

  あの娘がいれば 僕だって
  さびしい気持にゃ ならないさ
  まわりの暗さは 僕達のため
  あの娘が来るのを 待っている
  夕暮れ時は さびしそう
  とっても一人じゃ いられない

これは、NSPというグループが1974年に発表した楽曲である。詞は洗練されたものとは言いがたく、曲も泥臭くて、当時の私の周りでも好き嫌いが分かれた歌であった。NSPとは「ニューサディスティックピンク」の略だが、そんなシュールなグループ名を持った者たちには似つかわしくない、己の心情をストレートに表現した純朴な歌であった。高校生であった私が、この詞に激しく共感できるような体験をしていたわけではないが、何故だか今でも心の片隅に残っている my favorite songs の1つである。
 この歌を歌っていた、天野滋氏が今年の7月1日に亡くなった。その後しばらくは、いくつかのラジオ番組で、彼の死を悼んで何度かこの曲を耳にした。その度に昔のことが頭を過ぎったものだが、私が若かった頃に繰り返し聞いていた歌を歌っていた人たちが近年次々と亡くなっていく。「初恋」の村下孝蔵氏が1999年に、「酒と泪と男と女」の河島英五氏が2002年に亡くなってしまった。いずれも早すぎる死である。心から惜しまないではいられない。しかし、音楽の力は偉大だ。彼らがこの世を去った後でも、その名曲は私たちの心にいつまでも行き続けている。勿論、それは音楽に限ったものではなく、芸術全てに共通するものだ。
 まさしく、Art is long, life is short. (芸術は長し、人生は短し)である。
 夕暮れから連想しこんな話にたどり着いてしまった。やはり、夕暮れは人にものを思わせる力を持っている。
コメント ( 43 ) | Trackback ( 0 )

松井2005

 松井が帰国して数日たった。しばらくは日本に滞在して体作りなどを徐々に行い、来シーズンに備えるようだ。私はこのブログの自己紹介欄に「ヤンキース松井秀喜を応援することで日々の活力を得ています」と書いているが、オフシーズンになりめっきり松井の話題に触れることが少なくなった。自分でも松井ファンなのかなと思うくらい、彼のことを心に思い浮かべることが少ない。それは今シーズンの松井が私の期待を大きく裏切ったせいなのかもしれない。彼の残した成績がどうだというのではなく、私の心に残っている印象があまりにも少ないからであろう。その証拠に今季の松井のベスト3試合を選んで、久しぶりに松井について語ろうと思ったのだが、まったくあれこれ思い悩まずこの3試合、とすぐに決めることができてしまった。レギュラーシーズン全162試合中、150試合前後はライブかビデオで見たはずだから、いくらなんでも選ぶのに苦労するだろうと思ったのだが、ぱっと3つの試合が浮かんできた。この3試合の印象があまりに強かったからなのか、はたまた、それ以外の試合はほとんど記憶に残らないような詰まらぬ試合だったからだろうか。3試合を振り返りながら確かめてみよう。

第3位 4月4日 vs. レッドソックス(5番レフト)5打数3安打3打点
   1 2 3 4 5 6 7 8 9 R
BOS 0 1 0 0 0 0 0 0 1 2
NYY 0 1 3 0 0 2 0 3 X 9  
 松井は2回の第1打席で、レッドソックス先発のウェルズから今季初打席初ヒットを放つと、3回の第2打席でもセンター前へのタイムリーヒットで初打点を記録。その後2打席は凡退したが、8回の第5打席でマンテイからバックスクリーンに2ランをたたき込んだ。結局5打数3安打3打点の大暴れ。守備でも、2回にK・ミラーの大飛球をスーパーキャッチするなど、開幕戦勝利に大きく貢献した。

第2位 6月22日  vs. デビルレイズ(5番DH)5打数4安打2打点
   1 2 3 4 5 6 7 8 9 R
TAM 0 5 2 3 0 0 1 0 0 11
NYY 0 1 1 0 4 1 0 13X 20
 野茂との対戦が注目された松井。第1打席は四球で出塁すると、第2打席は、強烈なライナーでセカンドの頭を越えるライト前ヒットを放った。これで自己最長の12試合連続安打を記録。3回目の対戦となった5回、2死走者なしの場面では、センター前ヒット。野茂との直接対決は、2打数2安打で、松井に軍配が上がった。その後、第4打席は空振り三振を喫したが、1死一、二塁のチャンスで迎えた8回の第5打席はタイムリー二塁打を放ち、1打点を記録。とどめはこの回打者一巡して迎えた場面。シェフィールド、A・ロドリゲスが2者連続本塁打を放ち、いやが上にも3者連続の期待がかかる中、見事にセンターへソロ本塁打を放った。この日は5打数4安打2打点の大活躍で、打率をついに3割に乗せた。

第1位 6月15日  vs.パイレーツ(5番DH) 3打数2安打1打点
   1 2 3 4 5 6 7 8 9 R
PIT 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
NYY 0 1 1 1 4 0 0 2 X 9
 右足首をねんざし、連続試合出場記録の継続が危ぶまれた松井は2回の第1打席に、初球の真ん中ストレートをライトスタンドへ運ぶ、第5号先制ソロ本塁打を放った。先頭打者で迎えた4回の第2打席には、一二塁間を鋭く破るライト前ヒットで出塁。二塁へ進んだ後、後続のタイムリーで激走を見せ、得点を挙げた。第3打席はセカンドゴロ併殺打に倒れ、7点をリードして回ってきた6回の打順では代打を送られ、ベンチに退いた。打率は2割7分5厘に上がった。

 この3つの試合は全て克明に覚えている。開幕戦はあまりにすごい活躍で逆に今シーズンに期待を抱かせすぎた試合でもあったから、やむを得ず3位。デビルレイズ戦での3者連続HRは、「松井はここで遠慮しちゃう男だよな」という予想を見事裏切ってくれた素晴らしいHRだった。第1位の試合は自室のスカパーで見ていたのだが、 果たして走れるのかと心配した中での第一打席HR、涙が出た。何でこんなことができるんだろうと改めて松井のすごさで全身のふるえが止まらなかった。
 ああ、すごい試合ばかりだ。何だか気分が高まってくる。来年こそは、3つ選ぼうにも選びようがないと、うれしい悲鳴を上げられるような大活躍をしてくれるよう心から期待している。

コメント ( 23 ) | Trackback ( 0 )

紅白歌合戦

 大晦日のNHK紅白歌合戦の出場歌手が発表された。新聞に載っていたメンバーを見ながら、知らない歌手が何人いるか数えてみた。まず、白組では北山たけし、グループ魂、スキマスイッチ、Def Tech、紅組では AI、伊藤由奈、倖田來未、水森かおり、以上8人(グループ)は全く知らない。が、出場歌手合計60人(グループ)中54人は何とか分かるから、9割は認知していることになる。うーん、これが多いのか少ないのかは分からないが、最近昼の「笑っていいとも」しかTVを見ていない私にしては上出来かもしれない。と言っても、名前は知っているが、曲をほとんど聞いたことのない人たちも何人かいるから、知っている割合はもう少し小さいと考えた方がいいだろう。
 このまま知らないでいるのもなんだか、時流に乗り遅れたようで寂しい気もするので、芸能通の妻に聞いてみた。すると、さすが何でも知っている。「北山たけしは北島三郎の弟子みたい。グループ魂と言うのはクドカンの劇団からのグループ。スキマスイッチっていうのは愛知県出身。Del Tech はよく知らないけど、2人グループだったと思う。AI は歌は聴いたことあるけど、どういう子かは知らない。伊藤由奈はハワイ出身のハーフの子だったと思う。倖田來未は脚を開いて腰をくねくねさせて踊るし、露出の多い服を着ているのに、どうしてNHKは出すんだろう。水森かおりは「鳥取砂丘」って歌で何回かもう出てるはずだよ」とレクチャーしてくれた。さすがに芸能ネタは強い。じゃあと、「SMAPは何を歌うの?」と聞いてみたら、「たぶんNHKは『花』(世界に1つだけの花)を歌わせたいんだと思う。『すき歌』の一位にも選ばれたから仕方ないんだろうけど、私たちはもう歌って欲しくないし、メンバーも歌いたくないはず。新曲もあるんだから、そっちを歌えばいいと思うんだけど。だから、今年出した、『バンバカ』(BANG! BANG! バカンス)と『三角』(トライアングル)と『花』の三曲をアレンジしたメドレーを歌うんじゃないかと言われてるんだけど・・・」と専門用語を入れて見事な解説をしてくれた。芸能界も色々な思惑があって、思い通りにならないことも多いだろうが、ファンから見るとメンバーがやりたいようにやれないことが何よりも不満なようだ。
 まあ、SMAPは誰もがそれなりのパフォーマンスをするタレントぞろいだから欠かせない存在だが、よく見れば「おやっ?」と思うような人選もある。何で和田アキ子が白組なんだ、ゴリエなんか出すなよ(私は相棒の川田の方が好きである)、谷村新司と堀内孝雄はアリスで一括りか、前川清や細川たかし・川中美幸はもう勘弁してくれ、渡辺美里や山崎まさよしが出るのにそれ程注目されないのはおかしいなあ、えっ、マツケンは出ないの?何で?などなど突っ込みたくなることは山ほどある。
 しかし、やはり最大の焦点はユーミンの出場だろう。私は松任谷由実よりも荒井由実の時代の曲の方が好きだ。「冷たい雨」「中央フリーウエイ」「あの日にかえりたい」「ひこうき雲」「海を見ていた午後」「スカイレストラン」など、好きな曲はいくつもあげられる。彼女の都会的で洗練された雰囲気が、若い頃の私を魅了して止まなかった。愛知万博で、一緒に歌った Friends Of Love The Earth とともに出場することになったが、私は正直不安を感じる。ずいぶん昔にユーミンがTVの生放送で歌ったのを聞いたことがあるのだが、耳を疑うほどの下手さ加減で聞いていて辛くてたまらなくなったことがあるからだ。コンサートに一度も行ったことがない私にそんなことを言う資格がないのは十分認識しているが、それでも思わず大丈夫なの?と心配してしまうのは、やっぱりユーミンが私にとってのカリスマの1人であるからなのだろう。
 大晦日は、ユーミンが見事歌い切れるよう心から祈りながら、居住まいを正してTVの前に座り、彼女の歌を楽しみたいと思う。
コメント ( 21 ) | Trackback ( 0 )

電飾

 12月になればクリスマス、とばかりにいくつかの家でイルミネーションが飾られるようになる。上品に飾り付けられた家もあれば、やたらケバケバしく原色の電燈を点滅させるだけの家もあり、その家に住む人の感性や品性がほの見えて、夜の運転も楽しくなってくる。写真は私の家の近所のイルミネーションだ。中央に万博でおなじみのモリゾーとキッコロのイラストを置いて、その前にはトナカイや汽車の電飾された模型、横には光り輝くツリーを配し、なかなか上品な美しさを醸し出している。道を行く人たちもしばしば立ち止まって眺めている。塾の教室の窓から真っ直ぐに見える位置にあるので、私も授業の合間にチカチカ光る様子を見ては楽しんでいる。
 この家のイルミネーションは毎年進化を続けている。7・8年位前から飾り付けを始め、年を追うごとにきれいになっている。毎年少しずつ変化する趣向に研究の跡が窺え、頑張ってるな、と声をかけたくなる。ここは、周りがどこも電飾を施していないから、自分たちの思い通りにのびのびやっていられるのだろうが、向こう三軒両隣という具合に、辺り一帯がイルミネーションで飾り付けられている所は大変だろうと思う。話し合って協力している所もあるだろうが、多くは一軒一軒が単独で行っているように思う。それは飾り付けに統一性が見られないから勝手に思っていることだが、統一が取れていないからこそ、変な競争意識が芽生えて苦労しているのではないだろうかと、要らぬ心配をしてしまう。隣家が今年は電球の数を増やしたから、我が家も新しい飾り付けを買って来ようかなどと互いに意識し合い、切磋琢磨しながら、あるいはライバル意識をむき出しにしながら年々派手で大仕掛けになっていく所をよく見かける。愚かな負けん気の張り合いだと嘲笑することもできるだろうが、本人たちは結構涙ぐましい努力をしているかもしれないのだから、一概に馬鹿にしてはいけないだろう。
 無駄な電気を使って、電気代も大変だろうし、第一資源の無駄遣いだとイルミネーションが流行りだした頃はよく言われたが、今はあまり聞かなくなった。それよりもどこそこの電飾がきれいだという話題の方が中心になって、昨今では色々な公共施設も工夫を凝らして美を競っている。私の市でも、今年オープンした大きな市民ホールに昨夜から大きな電飾が施され、周辺の道路のガードレールは全て電燈で飾られるようになった。これがわが市の年末の風物詩になるのかと思うと、「狛犬」をかたちどった電飾はちょっと悪趣味だろうとは思うが、期間限定のものだからと素直に楽しめばいいのかもしれない。
 でも、わざわざイルミネーションしなくても、今はコンビニという一年中街を明るくする大きな電飾がどこにでもあるからいいじゃないかと、ちょっと嫌味を言ってみたくなる。今まで真っ暗だった場所にコンビニができると、一気に辺りが明るくなる。一晩中煌々と灯りを点けているから当然のことだが、そのおかげでかなり街が華やぐ。車の流れや人通りもコンビニができればかなり変わる。暗い夜道を歩きながら、コンビニの明かりが見えるとほっとする人も多いではないだろうか。まあ、誘蛾灯の役目をしていて、訳の分からぬ集団が集まって来るという弊害はあるにせよ、コンビニが街を明るくするのに大きな役割を果たしていることは紛れもない事実だろう。
 それが一番よく分かるのは、コンビニがつぶれたときだ。今まで不夜城の如く明るかった場所が、突如暗闇に変わってしまう。人通りもまばらになり、うすら寒い風だけが駐車場を吹きぬける。まさしく現代の廃墟だ。兵どもが夢の跡、と言った悲しみを漂わせながら暗闇に佇立している姿は、見る者に人の世の無常を考えさせずにない。
 そう言えば、イルミネーションを施したコンビニを私は見たことがない。そのことが既にコンビニという存在自体がそのままで一つの大きな電飾であることの、見事な証左ではないだろうか。


コメント ( 36 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ 次ページ »