JF4CADの運用日誌2.5

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敦賀御朱印と風景印巡り①

2024-08-20 | 御朱印めぐり
敦賀で御朱印と風景印巡りをやってきました。

敦賀は日本海側に面した天然の良港があり、福井県嶺南地方の中心として栄えてきました。今年の3月には北陸新幹線が敦賀まで開業しています。


まずは敦賀駅からバスに乗り永厳寺を目指しましょう。栄新町または金崎宮が便利です。googleマップですと国道8号の高架道路を行くように案内されますが、実際は1本西の道路を進み、踏切跡のところに石柱が建っています。

そこから8号線の道路の下をトンネルでくぐる形です。

永厳寺は1413年に東渓宗陽が開いた曹洞宗の寺院です。

当時は敦賀の寺屋敷町にあったようですが、朝倉義景の乱で焼失、1607年に現在地で再興されるも1945年7月の敦賀空襲で再び焼失、1968年に再興されています。

永厳寺は幕末の水戸天狗党の乱で降伏した15歳以下の少年を出家させる代わりに助命し預かることとなったお寺の一つでした。天狗党の乱は急進的な尊皇攘夷思想を持つ水戸藩の武田耕雲斎や藤田小四郎らが攘夷を訴えるため京に上ろうとしたもので、頼りにしていた慶喜が討伐に立ち上がったことを知り敦賀で加賀藩に降伏、武田耕雲斎や藤田小四郎らは敦賀で処刑されました。水戸藩は尊皇攘夷の天狗党と保守派の諸生党に藩論が分かれ、互いに対立する一族を皆殺しにするなどの激しい内部対立を起こし、明治になって新政府に輩出する人材が誰もいなくなるという悲劇的な結末を迎えました。なお元天狗党の少年達は明治になり許され水戸に戻ったそうです。

こちらは阿弥陀堂です。1986年に純銀製の阿弥陀仏を安置しています。

永厳寺の御朱印です。


歩いて5分ほどで金前寺があります。

736年に聖武天皇の勅命で創建された寺院で、その後気比神宮の奥の院となりますが、1337年の金ケ崎の戦いや信長による朝倉攻めに巻き込まれ焼失、1662年に現在地で再興されます。しかしながら1945年の敦賀空襲で本尊の十一面観音像も含めて焼けてしまいます。

やむなく末寺の気比蔵寺の本尊だった十一面観音像を本尊として迎え1946年に本堂を再建、さらに1989年に本堂を新築、2015年に戦前の十一面観音像を復元しています。

金前寺の御朱印です。


続きます。
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