心が凍るような相模原の事件。人それぞれ思うことは様々だろうが、クリスチャンとして知っておくべきことがある。それは、“福音を知る機会と能力のなかった人の救い”についてだ。私たちはこの質問に対して、分かりやすく且つ明快に答えることができるだろうか?そのための確認すべき点をいくつか教えられた。
まず、「何故人は死ぬのか?」ということ。そもそも人間は、はじめに創造された時には、死ぬようには創られていなかった。ところが、サタンの誘惑によって罪を持ったが故に人は死ぬことになってしまった。
このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです(ロ-マ5:12)
残念ながら、障害を持った方々や子供たちにも罪は存在する。人間には生まれもった“原罪”というものがあるからだ。天国には罪を持った人間は一人もいない。哀しみ、憎しみ、苦しみ、疑い、不安・・これらのものが一つでもあったら、そこは天国ではなくなるからだ。こういった人の思いが聖化される唯一の方法、それがイエス・キリストの十字架による贖罪である。それは難しいことでも何でもない。ただ信じ、受け取るだけ。ところがその単純明快さ故に、人はそれを受け取ることが出来ないでいる。
罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです(ロ-マ6:23)
それを、人間が納得し易い別の方法で救いに到達しようとしているのが仏教である。しかし、いくら修行を重ねようとも人間の罪はなくならない。彼らは輪廻転生を繰り返し、途方もない年月を修行に費やした末、罪と共に己もなくし、無になるしか方法がないと考えている。だが、その目的地は“天国”ではなく、もはや何も存在していない無の世界“涅槃”なのだ。
このような人間の努力について聖書も記している。何千年間に亘る旧約聖書の記述は、人間の努力では罪の清算は無理だったということの証明なのだ。だからこそ、人間による力ではなく、神ご自身が人間の罪を肩代わりするために、この地上に来てくださり、十字架という究極の方法を通して、罪をその身に被り、死を葬り去ってくださった。この事実を事実として信じ、「イエス様、ありがとう!!」と受け取った人は、誰一人もれることなく天国に行くことができるのである。
しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです(ロ-マ5:15)
天国に行ける基準は唯一、“イエス・キリストの十字架を信じ、受け入れること”だけ。これが一人でも多くの人々を救うため、救いの窓口を広くするための神の究極の方法であった。この神の真理を、自分の主観・価値観よりも優先出来るか?それがキリストの十字架を受け入れられるかどうかにつながる。聖書解釈に個人的価値観や感情を入れてはならないのだ。
多くのクリスチャンは、「私が愛するイエス様はこうあってほしい!」と思っている。しかし、「こうあってほしい」とは、自分の主観・思いであって、神の思いではない。人の思いで神の思いを変えることはできない。神の思いの方が広く、深く、高く、絶対なのだから。
聖書には“キリストの福音を知る機会と能力のなかった人々の救い”についての具体的な記述はない。その理由は、それは私たちの責任でも、私たちが知る必要もないことだからだ。私たちが知るべきことは、人は創造主である神との交わりの中で生きて行くように創られた霊的な存在であり、“神との関係なしには、人は誰しも生まれながらの障害者”なのだということ。
この世の不条理の原因をいくら追求したところで、問題解決には至らない。しかし、「どうして?」を「何のために?」と、問い直す時、そこに一つの答えを見出す事が出来る。
主の名を呼び求める者はだれでも救われる(ロマ10:13)
イエス・キリストは、救いを求める人のところへは必ず来てくださる。キリストと出会い、どのような御方であることを知った時、私たちは癒され、人生の劇的変化が訪れるのだ!ハレルヤ (2016年8月14日メッセージより Report by Mutsumi Kawamura)
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まず、「何故人は死ぬのか?」ということ。そもそも人間は、はじめに創造された時には、死ぬようには創られていなかった。ところが、サタンの誘惑によって罪を持ったが故に人は死ぬことになってしまった。
このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです(ロ-マ5:12)
残念ながら、障害を持った方々や子供たちにも罪は存在する。人間には生まれもった“原罪”というものがあるからだ。天国には罪を持った人間は一人もいない。哀しみ、憎しみ、苦しみ、疑い、不安・・これらのものが一つでもあったら、そこは天国ではなくなるからだ。こういった人の思いが聖化される唯一の方法、それがイエス・キリストの十字架による贖罪である。それは難しいことでも何でもない。ただ信じ、受け取るだけ。ところがその単純明快さ故に、人はそれを受け取ることが出来ないでいる。
罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです(ロ-マ6:23)
それを、人間が納得し易い別の方法で救いに到達しようとしているのが仏教である。しかし、いくら修行を重ねようとも人間の罪はなくならない。彼らは輪廻転生を繰り返し、途方もない年月を修行に費やした末、罪と共に己もなくし、無になるしか方法がないと考えている。だが、その目的地は“天国”ではなく、もはや何も存在していない無の世界“涅槃”なのだ。
このような人間の努力について聖書も記している。何千年間に亘る旧約聖書の記述は、人間の努力では罪の清算は無理だったということの証明なのだ。だからこそ、人間による力ではなく、神ご自身が人間の罪を肩代わりするために、この地上に来てくださり、十字架という究極の方法を通して、罪をその身に被り、死を葬り去ってくださった。この事実を事実として信じ、「イエス様、ありがとう!!」と受け取った人は、誰一人もれることなく天国に行くことができるのである。
しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです(ロ-マ5:15)
天国に行ける基準は唯一、“イエス・キリストの十字架を信じ、受け入れること”だけ。これが一人でも多くの人々を救うため、救いの窓口を広くするための神の究極の方法であった。この神の真理を、自分の主観・価値観よりも優先出来るか?それがキリストの十字架を受け入れられるかどうかにつながる。聖書解釈に個人的価値観や感情を入れてはならないのだ。
多くのクリスチャンは、「私が愛するイエス様はこうあってほしい!」と思っている。しかし、「こうあってほしい」とは、自分の主観・思いであって、神の思いではない。人の思いで神の思いを変えることはできない。神の思いの方が広く、深く、高く、絶対なのだから。
聖書には“キリストの福音を知る機会と能力のなかった人々の救い”についての具体的な記述はない。その理由は、それは私たちの責任でも、私たちが知る必要もないことだからだ。私たちが知るべきことは、人は創造主である神との交わりの中で生きて行くように創られた霊的な存在であり、“神との関係なしには、人は誰しも生まれながらの障害者”なのだということ。
この世の不条理の原因をいくら追求したところで、問題解決には至らない。しかし、「どうして?」を「何のために?」と、問い直す時、そこに一つの答えを見出す事が出来る。
主の名を呼び求める者はだれでも救われる(ロマ10:13)
イエス・キリストは、救いを求める人のところへは必ず来てくださる。キリストと出会い、どのような御方であることを知った時、私たちは癒され、人生の劇的変化が訪れるのだ!ハレルヤ (2016年8月14日メッセージより Report by Mutsumi Kawamura)
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